Oshoが肉体を離れる2日前に、ブッダホールに現れ、最後の別れの挨拶をしています。
いつもはポーディアムと呼ばれているところに彼の椅子が置いてあって、そこに座って瞑想をガイドします。
しかしこの日は椅子に座ることなく、ただポーディアムのまわりをゆっくりとゆっくりと、小刻みに足を動かしながら、ナマステー(合掌)の挨拶をしながら挨拶をしていきます。
私はその映像のビデオをハワイで見ました。ちょうどカヴィーシャがハワイに訪れていて、彼女がそこに集まっていたサニヤシンの人たち十数人に見せてくれたのです。
Oshoの講話をビデオで見ていても、彼がカメラを向くことはありません。しかしこの最後のビデオでは、Oshoは去り際に少し振り返って、ビデオの方を見て、かすかな笑みを浮かべたように見えました。
ほんとうに立っているのがやっとの状態で、Oshoは最後にみんなに挨拶をして、その2日後に肉体を去ったのでした。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」より、「Oshoの肉体との別れ」をお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 1月17日の夜、友人たちに会うために瞑想センターを訪れました。彼らに20日に戻ってこなくてはならないことを話すと、たった2日間の為にだけプーナに戻ることはない、20日まで一緒にいるように勧められました。
私は「Oshoはもうあてにできない。いつボディを離れてもおかしくないの。2日といえども離れていたくない」と言って皆の勧めを断りました。
1月18日の朝、プーナ行きの飛行機に乗るためにボンベイ空港に向かいました。空港には西洋から到着したばかりの数人のサニヤシンたちもいました。
Oshoの健康について聞かれた私は「Oshoの具合はとても良くてサットサングのために毎晩ブッダ・ホールに出てきている」と答えました。そう聞いた彼らはとても喜び、その夜Oshoに会える期待で興奮しました。
プーナに着いた私たちは、Oshoは1月17日にブッダ・ホールに出てきて皆にナマステをして出ていったことを知りました。Oshoはサットサングには座らず、今にも壊れてしまいそうなほどに弱々しく見えたようです。
1月18日の夜、Oshoは部屋の外に出てこないで部屋で座って私たちと一緒に瞑想をしているというメッセージを送りました。
1990年1月19日、コミューンの活動全てがいつものように行われていました。ブッダ・ホールにOshoのボディが不在であることはもはや珍しいことではありません。Oshoはこのために、この1年の間私たちを訓練してきたのです。
ところが午後5時30分、マ・ニーラムがマタジの部屋に泣きながら駆け込んできて、Oshoがボディを離れたと告げました。
私にはその意味が理解できず、しばらくの間、ぼんやりとニーラムの目を見つめていました。そして私はニーラムを抱きしめました。するとニーラムが泣き崩れ、そのときにようやく実際に何が起こったのかを理解しました。
純白の自鳥は足跡を後に残すことなく、広大な青空へと飛び立ったのです。
Oshoのボディは数分間ブッダ・ホールに置かれた後、歌って踊る大勢のサニヤシンたちに囲まれてバーニング・ガート(火葬場)に運ばれました。
壮大なエナジーが解き放たれ、Oshoを愛する者たちはそのエナジーにのって、このたぐい稀な瞬間をお祝いしています。
私は最前列に立って私の愛するマスターのボディが炎に包まれていく様子をじっと見守っています。
和尚 ( Osho )
生まれることもなく、死ぬこともなく
ただこの地球を訪れた
1921年12月11日から1990年1月19日まで
今日はここまでとします。
えたに