この「ディヤン・スートラ」は3日間の瞑想キャンプでなされたOshoの話です。
最初に、この瞑想キャンプに参加するにあたっての心構えについて話されています。
一つ目に大切なことは「真理への渇望」です。
この瞑想キャンプに単なる好奇心から参加している人がいるかもしれないが、単なる好奇心では助けにならないし、どこにも連れていかない、ということ。
見物人でいるのではなく、真摯に体験することに参加することが求められています。
まず、自分が何のために瞑想するのか? ということを自分に問いかけることが必要です。
「だから、一人一人が自分の内側を見つめ、
神性への真摯な渇望を抱いているか
どうかを見定める必要がある。
誰もがこう自問しなければならない――
「わたしは真理を知りたいのだろうか?」
神性への渇きが本物か、真理を、
沈黙を、至福を求めているかどうかを
はっきりさせなさい。
そうでなければ、ここで何をしようと
意味はないと理解することだ」
自分が何のために瞑想するのか?
その目的がなければ無意味であり、無意味な努力が実を結ばなくとも、瞑想の責任ではなく、責任はその人にある、ということが明らかにされます。
そして次に瞑想をするにあたって大切なアドバイスが話されます。
これはとても大切なことで、私も含めて、多くの人が間違ってしまうポイントです。
最初の一歩を間違ってしまうと、その後の瞑想の努力も身を結ばなくなってしまうと、Oshoは言います。
これは瞑想をしてく過程で、何度も何度も思い出すべきポイントです。
なぜこのことがそれほど大切なのかということは、後ほど解説します。
「前置きとして
二番目に言っておきたいことは、
あなたは何かに対してしばしば
渇きを抱きながら、欲するものを手にする
見込みはまったくないと思っていることだ。
あなたは欲求を抱いているが、
それに楽天的ではない。
欲求はあるものの、絶望感を伴っている。
いま、はじめの一歩が
楽天的に踏み出されるなら、
最後の一歩も楽天的に終わるだろう。
このことも理解しなさい――
はじめの一歩を楽観的でなく踏み出したら、
最後の一歩は打ちひしがれて終わるだろう。
最後の一歩を
満足と成果のあるものにしたければ、
はじめの一歩を楽天的に踏み出すことだ」
簡単に言うと、自分が瞑想によって望むものが得られると思っているかどうか?
ということです。
自分が瞑想に求めている真理を、心の平安を、至福を、悟りを得られると思って取り組むのか、瞑想したって無駄だ、何も得られない、自分にはできないと思って取り組むかで、その結果が決まってしまうということです。
これは瞑想に限らず、何をするにあたっても言えることです。
自分はそのことができると思って取り組んでいるのか、どうせ自分にはできないと思って取り組んでいるのかで、得られる結果が決まります。
どうせダメだ、自分にはできない、と思って取り組むと、結局は失敗に終わってしまうことになる、ということです。
自分はできると思って取り組めば、最終的にはそれを手に入れる可能性があります。
「はじめの一歩が楽天的に
踏み出されるなら、
最後の一歩も楽天的に終わるだろう。
このことも理解しなさい
――はじめの一歩を楽観的でなく
踏み出したら、最後の一歩は
打ちひしがれて終わるだろう」
とOshoが言っているのはそういうことです。
仏陀だから悟ることができたんだし、Oshoだから悟ることができたんだ、自分には悟ることなんてできないって思って取り組むのか、仏陀やOshoが悟れたんなら、自分にだって悟れるに違いないと思って取り組むかの違いです。
瞑想をしていくにあたって、自分には真理を得ることができるという強い思いがなければ、続けていくことも難しいでしょう。
「この三日間、わたしはそう言い続ける
――そして生きているかぎり
言い続けるだろう――
あなたはごく楽天的な態度を取るべきだ。
意識の状態に関するかぎり、
自分の行為が積極性と消極性の
どちらに根差しているかに
大きく左右されると、
気づいたことはないだろうか?
はじめから悲観主義者だったら、
木の枝に座りながら同時に、
その枝を切り落として
しまうようなものだ。
だからわたしはあなたに言おう。
この探求においては、
オープンであることがとても重要だ。
楽天的であるということは、
この世に真理を理解した人が
たった一人しかいなくても、
神聖な至福や安らぎを体験した人が
人類史上にたった一人しかいなくても、
自分だってそれを
体験できない理由はないと思うことだ」
「そして生きているかぎり言い続けるだろう」
とOshoがここで強調しているほどに楽天的であることは大切な態度なのです。
それは瞑想を続けていけばいくほど大切なことだとわかるでしょう。
すでに長年瞑想に取り組んでいる人はそのことを痛感しているかもしれないですね。
そしてこれから瞑想をしていこうという人がいれば、このことをいつも覚えていくことが大切です。
なぜなら、自己を探求しようとすることは、それほど簡単なことではないからです。
自己というのは高みもあれば谷もあります。瞑想で高みを体験することもあれば、逆に落ち込むこともあります。平坦な道ではありません。
だったら瞑想なんてしないでおこう、と思うのは私たちの自由です。
瞑想に興味を持つ人というのは、人生はそれだけではない。肉体が死んでしまえばそれでお終いなのだろうか?
この人生には何かそれ以上のものがあるのではないだろうか?
という疑問を持った人が多いはずです。
そしてまた、仏陀を見れば、そしてまたOshoのような人に出会ってしまえば、もしそのような可能性があるなら、それを探求してみたいという思いが生じて、それが瞑想することの動機になっているのではないでしょうか?
そこに一縷の望みでもあれば、そのことに挑戦しなさいというOshoからの招待状です。
実は、Osho自身も、その探求の過程で奈落の底に落ちた経験を持っています。
Oshoが瞑想をしていくにあたって、楽観的であることをこれほどまでに強調しているのは、そのためなのでしょう。
Osho自身がそのようにして探究してきた、ということが語られています。
「この人が何かを探求する旅に出たら・・・。
霊的な道の旅は、もっとも難儀な旅だ――
これより高い山の頂に登った者は誰もなく、
これより深い海に潜った者は誰もない。
自己の深みはもっとも深遠であり、
その高みは比類なくそびえている。
この道を歩こうと思うものは、
とことん楽天的でないといけない」
これについては、次回にも書いてみます。
瞑想に限らず、人生を生きていく上でも大切な考え方のヒントがここにあると思うからです。
今日はここまでにします。
えたに