集中は観照ではない

ここでOshoが語っていることは
瞑想する上でとても大切なことです。

瞑想することは集中することだと説明されることが多くあります。

しかし、集中はマインドの機能です。

瞑想はマインドを超えるものであり、無心となるものですから、

集中することは瞑想すること(観照)とは違う、ということを

とてもわかりやすく、具体的に語られています。

しかし、最初から観照することは、
瞑想の初心者には難しいことです。

ですから、最初は集中から入って、
観照へと意識を広げていくことが
やりやすいのではないかと思います。

最初はどうしても、呼吸を観ると
同時に集中してしまいます。

しかし、呼吸に気づきを集中することで、
雑念がなくなっていきます。

そこからくつろ義を深めていくことで 
意識が広がり
より観れていると感じ
しかも集中はしていない状態に
なっていけばよいのです。

自分なりに工夫して、
やってみてください。

<質問>

「からだを観照し
やがてマインドや感情を
鑑賞し始めると

わずかに 集中という
要素が残っています

例えば 呼吸を観ると
私は他のことを締め出して 
それを見つけています

そこに 焦点を合わせる
という要素があります

別の機会で 
沈黙がただそこにある時は

呼吸だけが観照されるもの
としてあるようです

それはより近い気がします

でももっと穏やかに
気づきの焦点を当てる方が

自分をさらに
引き戻してくれると思うのです

あたかも 
くつろぎが充分深まることで

観照者は遥か遠くに離れて行けて
その結果 何か一つのこと
例えば思考や呼吸
といったことではなく

全てが見渡せるようになる
くつろぐことは 
観照者を丘の上へと
連れて行くのでしょうか?」

Osho
その通りだ
くつろぎがもっとも役立つ
微塵の集中もあなたの観照に
あってはならない

集中は観照の全プロセスを妨げる
なぜなら集中は
マインドの行為であり

観照は何かそれ以上の何か
超越したところから
やってくるものだからだ

何らかの集中があるなら・・・

無理もないが
あなたは呼吸を観はじめると
観るという名のもとに 
あなたは呼吸に集中して
それ以外の全てを締め出してしまう

締め出してはいけない
呼吸を見つめなさい 
全てをひっくるめてだ

呼吸を観ていると・・・
寺院の鐘が鳴り始める
車が通り過ぎる
子供が泣き出すーー

その全てをひっくるめなさい
あなたの観照は
開かれていなければならない

呼吸を観ることは始まりにすぎない
それはゴールではない 
それは単に
いかに観照するかの学びなのだ

だが、厄介なことにーー
集中こそ観照だと
思い込んでしまう可能性がある

集中は観照ではない
集中は狭い 
マインドを狭め
マインドの焦点を一つの物事に絞り
他のことはいっさい忘れてしまう

だからくつろいでいる時に 
あなたはより
観れていると感じるだろう

しかも集中はしていない

それが起こっているのなら 
まったく申し分ない
重要なことは観照することだ 
すべてをひっくるめてだ

集中は乱れるが観照は乱されない
これが違いだ 

誰かが何かに集中しているなら 
誰でも彼を邪魔しうる

小さな男の子が
何かするだけで 
その人は掻き乱され
集中は失われるーー

または 
小さな男の子などでなくても
ただ風が吹いて扉が開き 
音を立てるだけで充分だ

だから 
いわゆる宗教的と呼ばれている
人びとの様子がわかるだろう

彼らはいつも怒っている
なぜなら 
彼らの集中は常に乱されるからだ

観照は乱されようがない 
それは単純にすべてを包含している

扉が開いて音を立てて 
風が木々を渡って歌うなら
観照はそれに開け放たれている

それは呼吸や何か特定のものを選ばず
ただ そこに 在る
開かれて 開け放たれて
起きているすべてのことに
立ち会っている

だから違いを覚えておきなさいーー
集中は観照を妨げる

はじめるにあたって 
あなたには何かが
与えられなければならない

観照とは何かを少しばかり
味わうことができるようにだ

次にそれをもっともっと広く
大きくしなければならない 
大きくて
何もする必要がないくらいにだ

くつろいでただ座るか 
横になるかすれば
周りで起きていることすべてが
あなたの中に照らし出される

それについて考えたり 
判断したり 非難したり 
評価したりせずにーー

あなたはただ観る

そう それはまったく正しい
くつろいでいること
完全にくつろいでいること
意識の焦点を合わせることなく・・・
それが真の観照だ

今日はここまでとします。

えたに