普通であること

Oshoの言葉。

私は何も特別なことは説いていない。
なぜなら、特別という観念は
すべて自己顕示だからだ。

私はあなたにふつうであること、
あたりまえであることを説いている。

そして、もしふつうであることに
くつろげたら、

突如として、あなたは
並はずれた光を放ちはじめる。

大いなる輝きがあなたに現れる。
           Osho

Oshoはつねに、自分はふつうの人間だ(I’m ordinary man)と語っていました。

「特別」という観念は自己顕示であり、エゴの作用だからです。

そういうエゴがなければ、ふつうであり、あたりまえであり、自然に生きることができます。

そうすることで、あるがままの自分になることができます。

しかし、それは奇跡に近い、と

昨日ご紹介したOshoの言葉では語っています。

なぜなら、エゴがなく生きることができるのは、エゴが幻想であることを見抜いた人であり、覚醒を得た人に可能なことだからです。

ひとつの奇蹟は可能だ。
そして、それは自然の法則に
反するものではない。

だがそれはめったに
起こらないから奇蹟的だ。

それが奇蹟的なのはそのためだ。

あなたは自然と波長を
合わせることができる。

即座にあなたはあるがままの
あなたとなる。

すると突然、すべての惨めさ、
すべての地獄が消える

あるがままであるということは、ふつうのことであり、あたりまえのことであり、

特別なことではなく、自然なことなのに、

それなのにそれはめったに起こらないことで、奇跡だと言うのですから、

なんだか、とても矛盾に満ちています。

その矛盾を生じさせているのは、エゴであり、思考なのです。

だからといって、思考が悪いわけではありません。

思考や考えることがなければ、この社会では生きてはいけませんから。

問題は、思考を使っているのではなく。

思考に使われてしまっていることなのです。

では、誰がその思考を使うのでしょう?

Oshoによると、
ハートが主人になるべきで、
マインドが主人になるから問題だ
と。

でも、そのハートということが認識できていないので、ものごとが複雑になっています。

今日はこれまでとします。

えたに