ゾルバは愛、ブッダは気づき

今回のOSHOの講話は、ゾルバとブッダについてです。

「ゾルバ・ザ・ブッダ」というのは、OSHOの人間に対するヴィジョンの中核ともいえる考え方です。

この考え方ゆえに、OSHOはゾルバ陣営(物質主義者)からはスピリチュアルな成長や気づきや光明について語るからといって非難され、仏教徒陣営(精神主義者)からは物質主義を持ち込んで純粋なスピリチュアリティーを汚染していると非難されています。

今回の話のなかで、在米スリランカ大使がOSHOによこした手紙のなかで「あなたはあなたのレストランやディスコをゾルバ・ザ・ブッダと呼んでいますが、それは世界中の仏教徒の感情を害するでしょう。ですから、それを考慮していただき、名前を変えていただきたい。ゾルバはブッダに加わるべきではないのです」と書かれていることのなかで述べられている、レストランやディスコは、アメリカのオレゴン州に建設されたコミューンにあったものです。

そのコミューンでは、レストランやディスコだけではなく、ゲームとして楽しめるカジノまであって、一日みんなそのコミューンで仕事をしたり、瞑想をしたり、ワークショップやグループなどをした後、夜はそれらのレストランで食事したり、ディスコで踊り明かしたり、カジノでのゲームを楽しんでいたのです。

普通一般に考えられている、いわゆるインドやタイなどにある瞑想のアシュラム等では、そんなことは考えられないことです。

そこは、OSHOが語っている「ゾルバ・ザ・ブッダ」の生き方を実践しようという楽園のような場所でした。

今回の質問はこうです。

質問は少し長いですが、その最後に次のように締めくくられています。

「気づきは向こう岸へ渡る船で、愛は帰って来るための橋なのでしょうか? 人生という名の川の土手をつなぐ」

OSHOの答えはこうです。

  あなたが言っていることはまったく正しい

  気づきは向こう岸へ渡る船で
  愛は帰って来るための橋
  人生という名の川の土手をつなぐ

  これはたいへん意味深い声明だ
  あなたのいう聖人たちは
  道半ばまでしか行っていない
  彼らはあるレベルの結晶化
  あるレベルの気づきを得たかもしれないが
  彼らは帰ってくることができないでいるのだ
  かつての岸辺へと
  愛のシャワーを携えて

  聖人は愛なしでは半人前だ
  愛の人も気づきなしでは
  同じく心半分で生きている
  あなたがたのいう聖人たちは愛を抑圧している
  いわゆる愛の人たちは気づきを抑圧している
  私はあなた方に両方であってほしいのだ
  気づきと愛の
  それで はじめて人生という円環が完成する

それでは、OSHOの話をお楽しみください。

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