存在への扉

 仏陀の最後の言葉は「自灯明 法灯明」でした。

 自らを灯明(導きの光)とし、法を導きの光とせよ、という意味です。

 OSHOの最後の言葉は「あなたはブッダであることを覚えていなさい。サマサティ」
 
 ”RMEMBER, YOU ARE THE BUDDHA, SAMASATI”

 でした。

 OSHOがマスターとして弟子に働きかけていたのは、まさにそのためでした。

 OSHOを扉として、自分自身がだれかということを思い出すこと。

 暗闇に光をともし、自分の先にあるものを見えるようにし、かつ、マスターに依存することなく、自分自身の足で歩み、自分自身がブッダであることを気づかせるための礎、扉として存在してくれていたのです。

 マニーシャは書いています。

 「両手を合わせたナマステの姿勢で、OSHOが講話のために私たちの前に現れる姿を見て、しばしば彼はいったい誰なのだろうと考える。

 彼を「知って」何年もたつが、彼とともに月日を過ごすほどに、彼が誰なのかますますわからなくなる。
    ’・
  彼は私たちに向かって、自分は単に友人であり、産婆であり、存在への扉だと言う。

 それを知的に解釈はできても、実際に理解することはできない。友人、産婆、外科医……これらについては、少なくとも理解できる。でも、OSHOを扉として見るですって? 

 扉をどうやって理解できるだろうか? 扉は通過されるべきもの、名前そのものは通過点を意味する。

 導師は、弟子が存在へと向かうための道にすぎない。だが私が存在に出会ったとしても、それに気づくかどうか確信はない。

 存在というものほど、大きく茫漠としたもの、個を超越したものを、どう理解するというのだ。

 私は戸口のあたりでぶらついているほうがいい。少なくともそこには、何かしがみつぐものがあるから。

 しかしこの扉は、生きた知性溢れる扉で、大勢の信奉者を引き付けながらも、必死にしがみつこうとする彼らの指をーー深い愛情とともに、目に見えないやり方でーーどうやって引き剥がすのか、正確すぎるほど正確に知っているのだ。

 しかし、自分にそれを当てはめようとしても当てはまらない。OSHOが私を引き剥がそうとしているとは感じられない。

 そんなやり方は、優しさに欠け、攻撃的すぎる。彼はもっと巧みに、私と彼の関係の中で、抗えない魅力にあふれた別の局面を見せてくれるだけだ。

 だから私は、助けを借りることなく扉を手放す。ー-なぜならもう、私は彼をひとりの人間としてでもなく、扉としての存在としてでさえもなく、雰囲気や空気やーーこれは質問の中でOSHOにも書いたのだがーーすべてが不思議なほど正しいと感じられる情況として、捉え始めているからだ。

 「すべては正しい」とOSHOは答えてくれる。導師(マスター)の存在のもとで、私はそのことに気づく。

 導師は暗闇の中の光だ。すべてはあるがままで正しく、美しい。

 導師が正しく美しくするのではない。弟子がその事実に気づくには、導師という光を必要とする。少なくとも、弟子が自分自身の光を育てるまでは。

  それこそが導師の仕事のすべてだ。それが終われば、彼はもう必要とされない。

 なぜなら弟子は、仏陀の言うところの、自らを照らす光になったのだから。」

和尚との至高の瞬間

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