身体の衰弱したOSHOが少しでも歩くことができるようにと作られた「ウォークウェイ」…ガラス張りの遊歩道ですが、ジャングルのように植物が生い茂った庭にあります。今ではビパサナ(静かに坐って、呼吸を見つめる瞑想)に使われています。
OSHOが自分のベッドルームのために、「早く作らないと、私がそこで眠ることができないよ」と言って突貫工事で大至急に作らせた部屋は、OSHOは数日そこで過ごしただけでした。
そこはOSHOがボディを離れたあと、遺灰をそのベッドのあったところに収めて「サマーディ」という瞑想をするスペースになりました。
その部屋は、一面イタリアから取り寄せた白い大理石でできた部屋で、天井は丸いシャンデリアのような照明が埋め込まれ、そのまったくの静寂の中に坐っていると、宇宙船に乗って宇宙をただよっているようにさえ思えるようなスペースです。
今から思えば、それがOSHOのベッドルームであるわけがなく、OSHOはすでに自分が肉体を離れたあとの準備を進めていたのです。
また、OSHOのためにアートルームを用意していたという話も語られています。
OSHOは、スピリチュアルマスターとして、膨大な量の講話と全世界で出版された650冊を超える本と、その影響力で有名ですが、あまり知られていないことではありますが、実はアーティストでもありました。
OSHOは自分が読んだ本の最後のページに署名を残していました。その署名には色彩が施され、その署名が絵となっていたり、署名とともに絵が描かれてあることが発見されました。
それはごく一部の人にしか知られていないことでした。
日本でウォーホルの企画に関わったことのある日本人のシャンタンが、その絵の価値に気づいて、OSHOの絵を日本でシルクスクリーンにしたいという提案をして、OSHOの承認を得て、日本でウォーホルの「菊」などの版画を作った刷り師の石田了一氏の手で、シルクスクリーン版画となったのが、この一連のOSHOの版画シリーズです。
私もシャンタンの要請を受けてそのプロジェクトに関わり、現在に至るまでその絵を世界に向けて紹介しています。
シュンニョは語ります。
「アナンドとニルヴァーノは、庭にOSHOの「ウォークウェイ」ガラス張りの遊歩道を造る計画を立てました。
そうすれば、健康がすぐれずに講話に出られないようなときでも、OSHOが少しばかり身体を動かしたり、庭を眺めたりできるようにです。
彼はこの計画に賛成しましたが、そのときの彼にはすでに、自分がそのウォークウェイを使うことは、おそらく2、3度しかないだろうとわかっていたように私には思えます。
ふたりはまた、OSHOのためにアートルームを用意したいと思いました。彼は数年前まで、とても美しい絵を描いていたのですが、フェルトペンとインクの臭いからアレルギーになってしまったのでした。
アートルームは寝室のとなりに造られ、OSHOがふたたび絵を描けるよう、エアーブラシ、インク、ペンなど、できるだけ臭いのしないものが用意されました。
アートルームは緑大理石と自大理石でできていて、ごく小さな部屋でしたが、OSHOはそれをとても気に入り、9カ月間そこで寝起きしました。彼はその部屋を自分の 「小さな庵」と呼びました。けれども、そこで絵を描いたのは一度だけです。
ある日、OSHOは私を彼の「小さな庵」に呼びました。雨期のころで、雨が激しく降っていました。
「俳句はこうやって詠むのだよ」と言うと、 次のような言葉を口にしました。
メデイテーシヨン(瞑想) 雨つぶおちる屋根のうえ
Meditation Raindrops Falling on the roof
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これは詩ではない。絵のようなものだ。
そう言うと彼は横になり、ふたたび眠りにつきました。
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)