これまで精神的な探求や宗教的なことはセックスとは切り離されてきています。聖なるものというのはセックスを非難し、抑圧してきた歴史があります。しかし、OSHOはセックスも人間の基本的なエネルギーとして、それを受容した上で、そのエネルギーを瞑想によって高次の意識、超意識への道を開いていく方法を教えました。そのことが宗教的な指導者やメディアなどから非難の標的とされてきました。
お釈迦さまは王家の出でありながら、それらの世俗を放棄して、禁欲の道を説き、出家による修行の道を説きました。キリスト教の聖書においてもセックスの記述はありませんし、キリスト自身が処女のマリアの懐胎によって誕生したことになっていますので、セックスレスですし、教会の牧師は禁欲と妻帯の禁止が原則になっています。しかしそうは言っても、宗教書のなかにはセックスを肯定し、それらを認めている聖典もあります。たとえば真言密教では「自性清浄」という思想が根本にあって、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないという考えがあります。そのなかでも『理趣経』は、この自性清浄に基づき、人間の営みが本来は清浄なものであると述べています。そのなかに「十七清浄句」といわれる17の句偈が説かれています。
その一部を紹介すると、以下のような記述があります。
妙適淸淨句是菩薩位 – 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
慾箭淸淨句是菩薩位 – 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
觸淸淨句是菩薩位 – 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
愛縛淸淨句是菩薩位 – 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
一切自在主淸淨句是菩薩位 – 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
見淸淨句是菩薩位 – 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
適悅淸淨句是菩薩位 – 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
愛淸淨句是菩薩位 – 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
つまり、すべてが菩薩の境地であり、清浄なるものであると書かれています。これらのお経をリズミカルに唱えていくと、気持ちが洗われて、清らかになっていくように感じられます。またインドにもカーマ・スートラ(サンスクリット語: कामसूत्र, 英: Kama Sutra)があり、古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)で、現存するもとのとしては最古の経典といわれています。
カーマ(性愛)は、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)とともに、古来インドにおける人生の三大目的とされてきています。インドの首都デリーから南東に620kmの位置にあるマディヤ・プラデーシュ州にカジュラホという人口約5000人弱の小さな村があります。カジュラホは、芸術的価値の高い彫刻を伴うヒンドゥー教及びジャイナ教の寺院群で、世界遺産としても知られていますが、カジュラホの寺院群は細い釣鐘状の塔(シカラ)があり、ミトゥナ像(男女交合のエロティックな彫刻)などの官能的なレリーフ群が施されています。カジュラホのパールシュバナータ寺院のシカラ(塔)
これらの像は、いずれも豊穣祈願が込められていると考えられていますが、OSHOによれば、これらの寺院は、瞑想をもたらすようにデザインされていると述べています。つまり外側のマインドの層を通り抜けて、寺院の内側に入ると、そこには静寂な瞑想のスペースに入るように設計されているというのです。カジュラホといえば、外壁のミトラ像しか取り上げられていませんが、その瞑想的な意義について聞いたのはOSHOが初めてでした。
また、インドに古くから伝わる宗教の聖典(経典)にタントラがあります。
タントラは織物を意味するサンスクリットで、その考えはヒンドゥー教、ボン教、仏教、ジャイナ教に共通して存在するとされていて、生命を全肯定するような考え方です。理趣経やカーマスートラ、カジュラホなども、そのような考え方の影響があるように思われます。現在のチベットのダライ・ラマ14世が長をつとめるゲルク派の祖であるツォンカパは、煩悩を菩提への道として転用するために、タントラが存在するのだと説いています。お釈迦さまの瞑想の道は、すべての煩悩を否定して、無へと導く瞑想の道だとすれば、タントラや理趣経などは、すべてを肯定して受け容れる愛の道と言ってもいいかもしれません。
OSHOは瞑想の道と愛の道は両翼の翼だと語っています。
人間は虹の7色であり、そのすべてをトータルに生きるべきだとも語っています。OSHOはセックスについてもさまざまに語っていますが、セックス、愛、祈りという段階があり、高次の意識への道の扉を開き、セックスを超えていくことを語っています。(セックスから超意識へ」)
これらの生物学的なエネルギーを、高次の意識へと変容させていくプロセスを瞑想という形にしたのが、OSHOの考案したダイナミック瞑想です。
第1ステージでは混沌とした速い呼吸で生命エネルギーを目覚めさせます。
第2ステージのカタルシスでは、感情的なエネルギーなどのマインドを解放します。
第3ステージで、フーというマントラとともに、セックスセンターを目覚めさせます。
第4ステージのストップで、瞑想の静けさのなかに入っていきます。
そして、第5ステージで、瞑想からの祝福のお祝いのダンスになっていきます。
シュンニョは書いています。
「私には奇妙に思えることですが、OSHOは世間の人たちから「セックス・グル(導師)」と呼ばれてきました。OSHOをそのように呼ぶ人たちは、あきらかに彼がセックスについて語ったことを読んでも聞いてもいないようです。
これまであらゆる宗教指導者はセックスを非難してきましたが、彼はけっしてそうではありませんでした。
彼が糾弾されるのは、それが唯一の理由のように思えます。
雑誌や新聞の記事を見ていると、世間の人たちはセックスに取りつかれているのがわかります。
セックスという言葉を新間の見出しに使えば、それだけで読者が増えるのでしょう。性的に放縦であることと、自然なエネルギーが全一に、動くがままにすることのあいだには、微妙な境界線があります。OSHOは大胆にも、この境界線ぎりぎりのところへと人々を導きました。私たちを光明(エンライトメント)へと導くワークの一環としてOSHOの選んだ道というのは、セックスを許容することです。
それは自然なものなのですから。
ただし、彼がつねに強調してきたのは、セックスを超えることでした。
抑圧に満ちたマインドには、セックスを超えられません。
ですから、内に抑えることではなく、外に表すことこそが、最初の一歩になるべきです。
それは、とても単純なことなのです。
『……瞑想によって、あなたはより高次の意識、超意識の扉を次々に開いてゆく。
エネルギーはつねに動きを求めている。滞ったままではいられない。
そして、こうして開かれる新しい領域は、はるかに魅力あるものだ。あなたはすでにセックスの領域を体験している。生物学的な見地からは、それはすばらしいものではある。だが、それはすべての動物、すべての人間、すべての鳥たちに開かれた、ありふれた体験にすぎない。特別でもないし、ユニークでもない。瞑想によって超意識への道が開かれ、そしてエネルギーも充分にあるならば、エネルギーはひとりでにその新しい道へと流れだす。
私が変容と呼ぶのはこのことだ』
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)