Oshoのもとで長年過ごし、Oshoの通訳をつとめ、自らも瞑想を深めていた体験を「インナーラビリンス」の著書で書かれたナルタンさんの講演から。
今回はその第2話をお届けます。
質疑応答の中で、熱心にナルタンさんのお話を聞いておられたかたから質問がありました。
やはり「Oshoの身近に過ごしていて、Oshoってどういう人でしたか?」ということについての質問でした。
Oshoから直接瞑想の指導を受けた人というのは今では少なくなってきています。
ましてやナルタンさんのようにプラティプラサブのような秘儀をマスターから指導されるというのは、世界でも数えるほどの人しかいません。
そんな人からOshoについての体験を聞くことができる機会なのですから、そのような質問がでるのはよくわかります。
Oshoというのは本当に広大な人でもあったので、Oshoについて語ることを聞いていると、人それぞれさまざまです。
どんな言葉を使ったとしても、それはOshoのある一面しか語れないし、またOshoについて語ることは自分のことを語ることになってしまいます。
なぜなら、Oshoはまさに鏡としてそこに存在してくれているような人ですので、Oshoについて語ることは、Oshoに映し出されたその人自身のことを語ることになってしまうからです。
なので、私に取っても、ナルタンはどういうふうに答えるのだろうというのは興味津々でした。
そこで、ナルタンは面白い表現の仕方をしていました。
なるほど、さすがうまい表現をするなぁ、と感心しました。
ナルタンは次のように説明したのです。
「Oshoをどのように見るかは、その人がどの程度開いているかによって全然見え方が異なってきます。
Oshoは広大な存在なのですが、私たちは小さな窓からその一部を見ているだけにすぎません。
ですから、開いていない人がOsho に会ったとしても、こんな小さな窓から見ているだけなので(といいながら片手を握って小さなのぞき穴を作って、その窓から見ている動作をして)ほんとに一部しか見えていません。
ですからそのような人が初めてOsho に会っても何も感じません。 でも、自分の瞑想が深まっていくに従って、自分が開いていくと、彼のエネルギーが感じられるようになっていきます。
そうすると、Oshoが部屋に入ってくるだけで、そのエネルギーに圧倒されてしまうように感じたりもするようになります。」
Oshoのエネルギーを感じることができるようになると、喜びにあふれ、至福を感じ、まさに愛としかいえないようなエネルギーが溢れているのが感じられるようになります。
Oshoが少し微笑するだけで、そこに集まった5000人の人たちが笑いに包まれます。その笑いは内側からやってくるのです。Oshoの内側からくすくす笑いが、自分の内側へと直接伝わってきます。
Oshoが少し指を動かして、くすぐる動作をするだけで、そこにあつまた人たちみんながくすぐられたように感じて笑い転げます。
Oshoが両手を動かして、私たちがOshoダンスと名付けたダンスをすると、それにあわせてみんなが喜びにあふれてダンスします。
そしてまた、ナルタンの言うように、Oshoの講話を聞いていたり、瞑想していったりするなかで、人はさまざまな体験をしていきます。
それは人それぞれの瞑想のプロセスのなかでいろんなことが起こっていくからです。
ナルタンの本にも書かれてありますが、Oshoは講話やダルシャンのとき以外は自分の小さな部屋に閉じこもっているだけでどこに出かけたりするわけでもありません。
にもかかわらず、Oshoは弟子のところに駆けつけていかなければならないようなこともあって「結構忙しいのだ」というふうに言っていたらしいのです。
ナルタンの経験を読むと、そういうことが実際に起こりうるのだ、ということがわかります。
私たちは、この五感と目に見える世界だけを使ってこの人生を生きているなら、ものごとはとても単純です。
肉体がなくなればこの世も全ても無くなるのですから。 それだけの人生です。
でも、Oshoに出会い、瞑想の世界を知っていくと、どうやらそれだけの世界というわけでもなさそうだということも気づいてきます。
シックスセンスという映画を見たことがあります。
1999年にアメリカで公開された映画で、死者が見える少年と彼をサポートする心理学者が体験する「未知の世界」と、その2人を取り巻く人間関係を描いたサスペンスドラマです。
私たちには第六感もあり、そのような感覚が開いていくと直観力のようなものが開いていくようです。
この映画にあるように、目に見えない存在や目に見えない世界ということについても目が開かれることもあるようです。
しかし通常はそのような感覚は閉じられています。
なぜなら、準備がなくてそのような感覚だけが開いてしまうと、どのように扱っていいかわからなくなり、危ない人になってしまうだけです。
間違うと精神病に思われてしまいます。(精神病と瞑想のプロセスで生じる神秘的な体験は全く別のものです) ですから、瞑想のような世界に入っていくときには、禅などでもマスターの指導が必要であったりするのは、そのためです。
それらの危険から守ってもらう存在として、マスターの存在が必要だったのです。
そういう意味で、瞑想を深めていこうとしている人は、こういうこともあるのかということを知っておく意味では、「インナーラビリンス」を読んでおくのも助けになるでしょう。
今日はここまでにします。
えたに