カルマを解消する秘儀「プラティプラサヴ」

ナルタンの「インナーラビリンス」から、「プラティプラサヴ」というOshoからの秘儀を受けるに至った、さわりの部分を引用してみます。

瞑想の指導について、マスターが弟子に対してどれほどのことまで行うことができるのか? これはまさに「秘儀」だとしかいいようがありません。

以下、「インナーラビリンス」からの一部を引用します。

59頁〜) 「その夜のダルシャンには、わたしを含めて十人近い人が集まった。  

そのうちの一人は新しく弟子になる北欧からの中年男性で、Oshoはまずこの人を呼び、通常の手順を踏んでサニヤスを授けてから、いつものように『何か質問はないかね?』と尋ねた。北欧人は何か言いかけたが、ぐっと詰まったような声を出し、 『たくさんあったのですが、すべて忘れました』

それを聞くとOshoは破顔し、くっくっと子供のような笑い声を出して『それはいい』と言いながら、祝福するようにその男性の頭上に軽く右手をあてた。  

そこにいる全員もつられて笑った。  

わたしも笑いながら、この人は、子供と同じ大きな笑顔、厳しい恐い師の顔、悪いたずら戯っ子のようなやんちゃな顔をすることはあっても、苦笑いすることはないだろうなと新しい発見をした気分になっていた。  

苦笑というのは不満と諦めと軽蔑が混合した表現だから、完全に開放された存在にはありえない表情だなどと思っているとき、Oshoが、わたしの横に座っていた端正な顔立ちのインド人の青年を呼んだ。たしかチンマヤという名前だった。

青年は貴公子然とした静かな物腰で立ち、マスターの前に正座して深々と頭を垂れ、両手で足に触れた。わたしはこれも後になって、この人が少年の頃からOshoに帰依した最古参の弟子の一人であることを聞いたが、このときには何も知らず、ましてやOshoがこの夜、わたしのためにこの古参弟子を使おうとしたなどとは思ってもみなかった。

青年が頭を上げ、Oshoが『どうだ、瞑想は進んでいるかね?』と言ったとき、不意にわたしは見えない手で胸ぐらをつかまれ、ぐいと前に引っ張られた。  

実際、わたしのからだがわずかに前に傾いた。その力は、大樹や古木に引き寄せられるときのものとはまったくちがい、否いやおう応ない強さはあるが、どこか安心していられる感じがあった。  

直感的にわたしは、Oshoが引っ張ったのだと知った。 なぜだろう、なぜ引っ張るんだろうと、頭が忙しく回りだしたとき、彼の声が頭のなかで響いた。 外から聞えるのではない、内側からだ。

当然、知性では理解できないことも起こってくる。

とくに過去の生に関する事柄の場合、重い宿業(カルマ)に関わる事柄がさまざまな形で現われ始めると、人は心を閉じ、逃げ出したくなる。 だが、心配することはない。恐がる必要もない。 すべては私に任せておけばいい。

おまえは頭でっかちの無知な弟子だが、せっかく訪れた機会の海には、勇気を出してジャンプすることだ』  

頭でっかちの無知という言葉は、会衆(かいしゅう)のなかの古い弟子たちの間に笑いをもたらした。

というのも、わたしは知る由(よし)もなかったが、この青年弟子は『哲人』のあだ名をもらうほど理屈っぽい質問をしては、よくOSHOにからかわれていたのだそうだ。  

だが、わたしも頭でっかちで無知 ……  

どんなことが起ころうと、避けずにそのなかに入っていきなさい。 私がいつもおまえを見ていることを忘れないように。危険を感じたり、恐かったりすることもあるだろう。だが何が起ころうと、人にそれをお喋しゃべりしたらぶちこわしだ』  

わたしには、その夜のダルシャンで直接指導が受けられなかったことが、不満というより理解で きなかった。何か理由があるにちがいない。

わざわざ呼んでおきながらあんなに回まわりくどい方法で、『何が起こっても人には話すな』とか、『恐がるな、私はいつも傍についている』とか、Oshoはいったい何のために言ったのだろう。いくら考えても理解できなかった。」   「インナーラビリンス」 より

このことがあってから、ナルタンはいよいよ神秘の秘儀、「プラティプラサヴ」を経験することになります。

その章の初めに、ナルタンは次のように書いています。

事実は小説より奇なりということわざを持ち出すまでもなく、この章に記すことはすべて事実です。ほとんどが不可解なことばかりで、自分に起こったのでなかったらわたし自身なかなか信じがたいことであり、読む人によっては強い疑念を抱かれることもあるでしょう。 だが、それでもなお、これは実際に起こったことなのです

この「インナーラビリンス」はまさにこの章のために書かれたのでした。

でも、この章だけだと、誰も本当にはしないでしょう。ナルタンがどういう人で、Oshoがどういう人かもわからなかれば、この秘儀がどのようなものかもわかりません。

まさに不可解としか言いようがありません。
世の中は不思議に満ちています。
このような事実を知ると、私たちが普段何気なく過ごしている日常の世界、目に見える日常の世界は本当の世界のなかの氷山の一角でしかないということがわかります。

私たちのこの人生には、計り知れない深みがある。このナルタンが経験したプラティプラサヴの秘儀は、そのようなことを感じさせてくれます。

インナーラビリンス

 今日はここまでにします。

えたに