人は自分の見える世界しか見ていない。
自分も含めて、多くの人を見ていて、そのように思います。
人はいろんな色眼鏡をかけて世界を見ていて、その自分の色眼鏡の色でこの世界を見ています。
ブルーの色眼鏡(悲観的な人)をかけている人はこの世の中をブルーに彩って見ていますし、ピンクの色眼鏡(楽天的な人)をかけている人はこの世をピンクの世界として見ています。
瞑想をするということはその色眼鏡を外すことであり、ブルーでもなくピンクでもなく、あるがままにこの世を見ることができるようになるということです。
でも人はあまりにも自分の色眼鏡に同化しているので、そのメガネをかけない世界を見ることができなくなっています。その結果、あるがままの世界を見ることができなくなっているのが現状です。
瞑想すれば、だんだんに色眼鏡とも距離ができやすくなるので、自然に色眼鏡も外しやすくなってくるのですが、色眼鏡をかけている限りは瞑想することは時間の無駄にしか思えないでしょう。
というか、色眼鏡をかけている限りは、瞑想そのものが見えない、といったほうがいいかもしれません。瞑想なんて無意味だし、なんの役にも立たないものだとしか思えないのです。そしてそういう色眼鏡をかけているマインドは、瞑想などという、役に立たないことはしたくありません。
そもそもマインドから見る限り、瞑想は無意味なものなので、したくないものなのです。
それはそうです、瞑想というのはある意味でマインドが無くなる(無心)ことでもあるので、わざわざマインドは自分が消えるようなことはしたくありませんから。
そこでOshoが勧めていることは、同じメガネをかけるなら、悲観的なメガネをかけるのではなく、まず楽天的なメガネをかけることです。
なぜなら悲観的な態度でいる限り、瞑想に取り組むことも、自己を探求していくことも不可能になるからです。
瞑想とは自分の魂を見出していくことでもありますが、悲観的な人にとっては魂はこの世に存在しないものなので、瞑想の効果が現れたとしても、それを見ることもできません。
「悲観性もある種の人格をつくり出す――
全細胞が泣き、悲しみ、疲れ、
落胆し、生気を失ったような性格――
生きているのは名ばかりで、
魂は死んでいるようなものだ。
この人が何かを探求する
旅に出たら…‥。
霊的(スピリチュアル)な路の旅は、
もっと難儀な道だーーー」
瞑想をするというのは、ある意味では高い山に登るようなものです。
そのことに喜びを持って、楽天的に取り組まない限り、それを続けることは難しいです。
「なぜ山に登るのか?」と聞かれて「そこに山があるからだ」と答えた有名な登山家がいましたが、それだけではなく、頂上に登った時の爽快感を味わい、苦しい登山の中にもある喜びがあったはずです。
そもそも自分はその頂上に登れるという思いがなければ山に登ろうともしないでしょう。
なぜ瞑想するのか?
それはその頂上に仏陀がいて、Oshoがいて、多くの瞑想の高みを極めた先達がいるからです。そして彼らが瞑想について語ってくれているからです。でなければその瞑想の存在さえ知らなかったでしょう。
Oshoが楽天的な態度を重視する理由として、次のようなことを述べています。
「長年の経験から結論に達したのだが、
人間の否定性というのは
非常に強くなりうる。
だから何かを達成し始めていても、
否定性ゆえにそれが
見えないことがあるのだ。」
Oshoはここで面白い例を語ってくれています。
これは非常によくあることで、瞑想をしているときに見落としがちなことです。
瞑想を始める前はとても惨めな気持ちで毎日を過ごしていたのに、瞑想を始めるようになって、なぜだかわからないけど毎日がとても楽しく感じる。ウキウキした気持ちさえする。
でも惨めだった人は、それが瞑想の効果だってことに気づいていなかったりするのです。
「以前、ある人が妻を連れ、
よくわたしのところに来ていた。
はじめて会ったとき、
彼は妻が眠れないのですと言った。
彼はわたしに彼女の状態を説明した――
「彼女は、薬なしでは
まったく眠れません。
しかも薬を使ってすら、
三、四時間しか眠れないのです。
そして妻は怖がっています。
奇妙な恐怖心が、
彼女を掻き乱しているようです。
家の外に出るのは怖がるし、
家で寝ていると家が崩れるのでは
ないかと恐れるのです。
近くに誰もいないと、独りだったら
死んでしまうと怖がります。
だから常に誰かが近くに
いないといけません。
夜は非常事態に備えて、
自分のそばに薬をすべて
置いておくのです」
わたしは、ちょっとした瞑想を
始めたら助けになるだろうと助言した。
彼女は実験を始めた。
七日後にわたしは彼に会って尋ねた。
「どうなったかね?奥さんはどんなかね?」
彼は言った。
「たいして進歩はありません――
よく眠るだけです」
一週間後、わたしは
再び彼に会って尋ねた。
「何か変化は?」
彼は言った。
「あまり状態は変わっていません。
でも、少し怖がらなくなりました」
また七日たってから、
彼に再び会って尋ねた。
「何か起こったかね?」
「取り立てて何も」と彼は言った。
「いまでは、いくらか眠ろうとしています。
怖がらなくなり、もうそばに薬を
置くこともなくなりました――
こんな程度です」
「わたしはこれを否定的な見方と呼ぶ。
この男は何かを体験したとしても、
それを見極めることも、
認めることもできないだろう。
この人の中には、
こうした見方が組み込まれている。
否定的な人は何も体験できないし、
実際に何かを体験したとしても、
それを認められないーーそ
してそうでなければ
可能な多くのことが妨害される。」
もう一つのOshoの提言については、また明日に。
それでは今日も楽天的な1日を!
今日はここまでにします。
えたに