痛みや問題を簡単に取り除く方法

Oshoの言葉には、いつもいろんなヒントが隠れています。

Oshoの本を読むことの中に日々の瞑想のヒントが多くあります。

例えば、ここに紹介するOshoの言葉の中で、 

『問題が自分のものでないなら、
 煩わされることはない。
 誰かほかの人の問題なら、
 何の問題もない。
 その問題を自分の
ものとして受け取ると、
 問題が起こるのだ。』
 

という言葉がありますが、それは今自分が抱えている問題についても言えます。

自分の問題を自分の問題だと思うから苦しいし、辛いし、大変になってしまいます。

それは自分のマインドの層だけで解決しようしていると、その問題と自分が同一化してしまっていて、そこから抜け出せなくなって、苦しくなってしまうのです。

でも、それが自分の問題ではなく、他人の問題だと思えば、逆に興味深く感じられたりします。

人の不幸は蜜の味、っていう言葉がありますが、小説を読んでいる時には、主人公が危機に陥ったり、悲しんだり苦しんだりしている時にも、それをある意味楽しんで読んでいます。

そして、そういうチャレンジがあって、それを克服していくから面白いのであって、ずっと幸せな生活をしていてもドラマにならないわけです。

であれば、自分が苦しくて辛い時にも、それをドラマの主人公の物語にしてしまえばいいわけです。

とは言え、なかなかそうは思えませんよね。

なぜなら、それは自分のマインドと同一化しているからです。
マインドと同一化している限り、自分の問題は自分の問題なのであって、他人の問題とは決して思えません。

瞑想をしていていいところは、そういうマインドとの同一化から距離を置いてみることができるようになることです。

そのマインドの同一化に気づいて、距離を置くための最も簡単な方法がハート瞑想です。

ハートのスペースということに気づいていくに従って、自分はマインドではない、ということにも気づくようになってきます。

そうなると、それらの自分の問題も問題ではなくなり、興味深いものとしてみることができるようにもなっていきます。

昨日、ある人がわたしに尋ねた。

『人々は、あなたに
自分の問題をどっさり尋ねます。
それに煩わされることは
ないのですか?』

わたしは彼に言った。
『問題が自分のものでないなら、
煩わされることはない。
誰かほかの人の問題なら、
何の問題もない。
その問題を自分の
ものとして受け取ると、
問題が起こるのだ。』

この意味で、わたしは
問題を抱えていない。

しかしわたしは、
違う種類の悲しみを抱いている。
それはわたしの周りに、苦しみ、
多くの問題を抱えている人々を、
たくさん見かけることだ。

でもわたしは、
彼らの痛みや問題は
簡単に取り除けると思っている。

というのも、
とても単純な解決法があるからだ。
もし彼らが扉を叩くなら、
扉はいとも簡単に開くだろう。

彼らは、まさにその(扉の)
目の前に立っているのに泣いている。
それこそ、私がまったく違った種類の
苦悩や痛みを感じるときだ。

Oshoは自分自身でいる限り(他の人の関わらなければ)、何の問題もなく、幸せな人生を送ることができたはずです。

しかし、他の人たちの苦悩や痛みを感じると、そうもしていられなかったのでしょう。

そこに仏陀やOshoの慈悲を感じます。

それはともかく、Oshoは、

「でもわたしは、
彼らの痛みや問題は
簡単に取り除けると思っている。
というのも、
とても単純な
解決法があるからだ。」

と語っています。

それって一体何なのか、気になるところです。

それはまた次回に。

それでは今日も素敵な1日を。

Have a nice day!

えたに