坐禅

Oshoの言葉

坐禅:

坐禅は、深いところで
何にも従事しない状態であり

外見上は何もせず、
内面的にも何もしないことだ

それは瞑想でさえもない
なぜなら、瞑想をするときは
あなたは何らかの
努力をしているからだ

あなたは何かをしようとしている
マントラを唱えたり、
神を思い出したり

自分自身を思い出していたり

しかし、これらの努力は波紋を作る
これらの努力は振動を作り出す
すると、あなたが坐っていることが
堕落してしまう

そうすると、あなたが坐っていることが
純真なものではなくなる

坐禅とは、坐り、そしてただ坐り
他には何もないことを意味する
        Osho

道元は、坐禅のことを、

只管打坐

というふうに述べています。

ただ坐る、 ということです。

そうすることで、

身心脱落、脱落身心

という境地がひらけてきます。

すべての努力がなくなり、

ただ坐るということがそこにあるような境地です。

> それは瞑想でもさえない
> なぜなら、瞑想をするときは
> あなたは何らかの努力をしているからだ

とOshoが坐禅のことを語っているのはすごいなって思います。

瞑想さえも落とし、
瞑想さえも超えてしまった境地が
坐禅だと言っているわけですから。

でも、坐禅は、最初はとても努力がいります。

そもそも、坐禅の作法で坐ることに慣れるまでが大変です。
足が痛くなって、とても長時間坐ることができません。

しかし、あの坐り方というのは、超合理的な坐り方なのです。

その坐り方に慣れると、まさに何の努力もなく
長時間座ることが可能になります。

そのようにして、ただ坐ることを続けていると、

> 坐禅とは、坐り、そしてただ坐り
> 他には何もないことを意味する

心脱落、脱落身心

という境地が現れてくるのです。

今日はここまでとします。

えたに