この瞬間の純粋性

この瞬間の純粋性

この瞬間に、全面的に生きなさい。
迷うことなく。

もはや存在しない過去を思うことも、
いまだ存在しない未来を
空想することもなく。

あなたが手にしているのは、これ、
この瞬間の純粋性だけだ
       Osho

> この瞬間に、全面的に生きなさい。

この言葉は、このOshoの言葉の中で、
もう耳にタコができるほど
聞いてきたかと思います。

もうそんなことはわかっている、
って思うかもしれません。

しかし、もしそれができていたら、
あなたはもう悟っています。

もし悟っていなければ、
まだ十分にはその言葉を聞くことができていない
ということです。

「全面的に」
というのは、トータル、という意味です。

この「トータル」ということが
キーワードになります。

totalというのは以下のような意味を持っている言葉です。

・合計した、総計の
・全体の、全てを含んだ
・総合的な、全てがまとめられた
・〔程度などが〕全くの、完全な
・〔国家などが〕全体主義の、絶対権力を持つ
・〔戦いなどが〕全面的な、総力を挙げて行う

ひとことで言えば、

マインドがないときに、
トータルでいることができます。

つまりは、瞑想の中にいるような状態、
フローやゾーンの状態にあるときは
トータルな状態です。

それは実際には、どのようにして起こるのか?

そのことをマニーシャが書いてくれていますので、
そのマニーシャの言葉をここにご紹介します。

それは、ここで毎朝紹介している
Oshoの言葉をどのように読めば良いのか、

ということのヒントにもなると思います。

それは、Oshoの講話を聴く方法と同じです。

それは同時に、

> この瞬間に、全面的に生きなさい。

ということになるのですが、

マニーシャは次のように書いています。

Oshoはマニーシャを実験台としながら
いくつかの瞑想法を編み出しました。

ここでは、マニーシャを実験台としながら、
Oshoの講話を聴くことのアートについて
語られています。

以下がマニーシャの言葉です。

禅シリーズを開始したときから、
Oshoは毎回の講話の冒頭に
私の名を呼んだ。

それから禅の逸話に入り、
私たちに向かって
いくらか話をしたあと

「さて、
マニーシャの禅のスートラは……」
と言ったり、

「マニーシャは、
すばらしいスートラを持ってきた」
とか、

ある晩など
「今宵の美味なる禅の夕餉に、
マニーシャはこう尋ねている」
などと言う。

これを聞くと、私は
無上に愛されているのを感じる。   

講話の冒頭で
私の名が呼ばれるのを聞くことは、

始めから終わりまで全面的に、
いまここに在り続けるための
大きな助けになった。

Oshoから一対一で
話を聴いているかのように、

講話の間ずっと気づきを
持ち続けることができた。

しかし私は、
くつろいだ状態で、
いまここにいる必要があった。

2時間も張り詰めて注意力を働かせて
座っていることなどできない。

私はぼうっとするのでもなく、
無理矢理集中するのでもなく、
彼の話に耳を傾ける方法を見出す。

講話の内容に耳を傾けたいが、
内側の静寂を失うほど、
頭を働かせたくなかった。

私は、言葉が自分を洗い流すような
聴き方を発見する。

語られたことについては明瞭だが、
遠い記憶だけが残る。

それはとても受け身の聞き方で、
私の大部分は無限の沈黙の空となる。

一方、残りの部分で言葉を吸収する。

それはバランスを維持するアートだーー
沈黙を離れて思考のプロセスに
巻き込まれるのでもなく、

まったく我を忘れて
私の内側と外側の静寂の大海に
溺れてしまうのでもなく。

ある晩、Oshoは
彼の言葉は誰よりも私の中に
より深く浸透するはずだと言う。

たしかに私は彼の言葉を聴き、
私の存在のいくつもの層で
その意味を感じ取り、

言葉と言葉の間に存在する
空間のもつ魔法に、

波長を合わせることを学んでいる。

瞑想、内側に在ること、
沈黙ーー実存的な禅ーーは、
Oshoの言葉と言葉の狭間に存在する。

私にとってもっとも強烈な瞬間は、
彼が単刀直入に言葉を使い、
私たちをその瞬間に沈降させるときだ」

Oshoの講話を聴くアート
https://oejbooks.com/2015/09/30/art-to-liste-n-to-the-lecture-of-osho/

今日はここまでにします。

えたに