この瞬間を超えて、何も存在しない

Oshoの言葉:

この瞬間を超えて、何も存在しない

私の関心は、即時の、この瞬間にある。
この瞬間の向こうには何も存在しない。

実存している唯一の時間は今であり、
問題となる唯一のスペースはここだ。

だから私は、未来に
何が起ころうが気にしない。

過去にも未来にも、何の妥当性もない。

しかし、それがマインドのやり方だ。
マインドは過去と未来という視点でしか
考えることができず、
現在を体験することができない。

現在から絶えず逸脱している。
マインドは振り子のようなものだ、

左へ、さらにもっと左へ、
あるいは右へ、
さらにもっと右へと動いている。

左派(急進派)か、
右派(保守主義)かだ

私の全体的なアプローチは、
まさにそのちょうど
真ん中に止まることだ。

ゴータマ・ブッダが使った「真ん中」
という言葉は、とても美しい。

彼はMAJJIM NIKAYAを
「正確な中道」と呼んだ。

もしあなたが振り子を
真ん中に留めておくことができれば、
時計は止まる。

時計はマインドを表す。
文字通りの意味だけでなく、
単なるメタファー(隠喩)でもない。

マインドは時間だ。
時間は2つの時制からなっている、
3つではない。

現在は、時間の一部ではない。
過去は時間であり、未来は時間だ。

現在とは、時間という世界への
それを超えたもからの浸透である。
           Osho

今この瞬間にいるとはどういうことなのか?
ということの洞察をもたらしてくれる言葉です。

私たちはマインドの世界に住んでいます。
過去か未来の中に住んでいて、
今ここにいることができません。

右(翼)は左(翼)かの
二元性の世界の中で争っていて、
その中間に止まることがなかなかできないでいます。

ここで Oshoが語っていることは、
まさに、この世界で起こっていることです。

マインドは振り子のようなものだ、
左へ、さらにもっと左へ、
あるいは右へ、
さらにもっと右へと動いている。

左派(急進派)か、右派(保守主義)かだ

これに対して、瞑想的なやり方、
Oshoのやり方はこうです。

私の全体的なアプローチは、
まさにそのちょうど
真ん中に止まることだ。

その瞑想的なアプローチとは、
全体的なアプローチ、
つまり、右も左も含んだ上で、
そのちょうど真ん中に止まることです。

世間で流布している情報のバランスをとること。

メインメディアではあまり報道されていない情報にもアクセスすることで、
情報の全体的なバランスを取ることが必要です。

そうすることで、右にも左にも偏らないで、
それらの両方にに気づいて、
観ていることができるからです。

とりわけ、いまでは、認知線、情報戦が酷すぎて、
何が本当かが、ますますわからなくなってきています。

そんなときには、どんな情報にもとらわれることなく、
自分の中で、気づいて観ているということを意識的にしていないと、

ついどちらかの情報にとらわれてしまいます。

そういう時にこそ、自分の瞑想、気づきが試されます。

今日はこれまでにします。

えたに