正しいサマーディ

Oshoの言葉

正しいサマーディ

人は無意識になることがある
内側にあまりにも深く入りすぎて、
外側を忘れてしまうことがある

ちょっと見てごらん
普通私たちは外側に生きている
内側を忘れてしまっている

内側では、私たちは無意識だ
外側には少し意識がある

私たちは外側を生きている、
外向的だ

そしてある日、
あなたは逆立ちし、頭の上に立つ

あなたはすべてのプロセスを変える

あなたは外側を忘れ始め、
内側に気づき始めるようになる

あなたは内側に完全に
埋没するようになるときがやって来る

そうするとあなたは
外側のことを忘れてしまう

仏陀は言う、
これは間違ったサマーディだと

それは同じ人だが、
真逆の姿勢で立っているのだ

仏陀は言う、
正しいサマーディとは、
外側を犠牲にすることなく、
内側も外側も完全に
気づいているときのことを言う

内側にも外側にも
あなたは気づいている

あなたの意識の光は、
とても明るく燃えていて、

あなたを光で満たす
その光はあなたの外側も光で満たす

実際のところ、
正しいサマーディでは、
内側も外側も消えてしまう
ただ光だけがある

正しいサマーディは
内側のものではない

正しいサマーディは
内側も外側も超越したものだ

正しいサマーディは
二元性、分裂を超越したものだ

Osho

ここでOshoがサマーディと言っているのは、
瞑想のことです。

瞑想と言っても、さまざまな側面、深みがあります。

マインドフルネス、サマサティ(正念)、サマーディ
一つひとつを詳しく見ていくと、
それぞれに微妙なニュアンスの違いがあります。

微妙でありながら、決定的な違いもそこにはあります。

瞑想のエッセンスとして、気づきがありますが、
往々にして誤解してしまうのは、

その気づきとは内側だけのものだと思ってしまうことです。

しかし、それは片手落ちだということを
ここでOshoは語っています。

私たちが瞑想を知る前は、外向的でした。
外側についての気づきがありますが、
内側においては無意識が支配していました。

マインドは外側を向いていますから、
マインドによる気づきは、外側のものに対する気づきになります。

そして、瞑想を始めると、
今度は内側に目が向いて、
内側のことに気づき始めます。

そうすると、今度は、
内側のことに目が向き過ぎて、
外側にことを忘れてしまいます。

しかし、それだと逆立ちしているに過ぎない、
と、Oshoは語ります。

そしてある日、
あなたは逆立ちし、頭の上に立つ。
あなたはすべてのプロセスを変える。
あなたは外側を忘れ始め、
内側に気づき始めるようになる。

そうではなく、正しい瞑想というのは、
外側にも内側にも、その両方に気づいていることをいいます。

仏陀は言う、
正しいサマーディとは、
外側を犠牲にすることなく、
内側も外側も完全に
気づいているときのことを言う。

でも、さらにその瞑想が深まっていくと、
内側と外側の区別さえもない、ということになっていきます。

正しいサマーディは
内側のものではない。

正しいサマーディは
内側も外側も超越したものだ。
正しいサマーディは
二元性、分裂を超越したものだ。

瞑想はどこまでも深いですね。

今日はここまでにします。

えたに