もっと気づくようになるために(2)

Oshoの言葉

もっと気づくようになるために(2)

偉大な聖者は言った。
「私の指示に従いなさい。
彼のところに行って、
彼に頭を下げなさい。

自分がサニヤシンで、
彼はただの家長にすぎない

などというエゴイスティックな
態度を取らないように。

彼は世俗に住んでいる、
彼は世俗的で、
自分はスピリチュアルだ。

そのような考えはすべて忘れなさい。

私は、何かを学ばせるために
おまえを彼のもとに送るのだ

だから、その間は、
彼があなたのマスターだ。

そして私は知っている。
私はここで試したが、
おまえは理解できなかったーー

なぜなら、それを理解するには
別の文脈が必要だからだ。

ジャナクの宮廷とその宮殿が、
おまえに正しい文脈を
与えてくれるだろう。

おまえはただ行って、
彼に従うだけでいい。

この数日間は、彼が私の代りとなる。
            Osho

昨日の続きです。

サニヤシンの若者は、修業において
欠けているものを学ぶために、
賢者の友人のジャナク王の宮廷に
行くようにと指示を受けます。

その際には、自分のエゴを落として
謙虚になって行くようにと師にさとされます。

禅にも有名な逸話があります。

ある人が禅の師匠のところに教えを請いに訪れます。

そこでお茶を出されますが、
その禅師は、お茶を注ぎながら、

お茶碗からお茶がこぼれているのに、
まだ注ごうとします。

そこで、思わず、

「禅師さま、お茶が溢れています!」

って、その客人が声を上げると、
その禅師が言います。

「これがそなたの状態だ。
すでにあなたの頭が
いっぱいになっている。

私が何を話したとて、
受け入れることはないだろう」と。

すでに自分の考えや先入観でいっぱいになっている限り
人の話を聞くことはできません。

若者は、すでに、自分が聖者のもとから
一般の、俗世のジャナク王の宮廷に行くことに
不満そうな様子をしていたのでしょう。

それを見てとった聖者は若者に、
そのようなエゴイスティックな態度を落として、
謙虚に、無心に学ぶようにと注意を与えます。

そして、

私はここで試したが、
おまえは理解できなかったーー

>なぜなら、それを理解するには
別の文脈が必要だからだ。

というのも、興味深いところです。

禅でも同じような伝統があります。

禅の修行者は、自分の師を求めて、
いろんな師を訪ねて回るということをしたりします。

自分にあった師を求める
ということなのでしょうけれども、

一つの学びだけに固執せずに、
時には環境を変えて、別の学びをする
ということも必要なこともあることを
教えてくれています。

つづく

えたに