自らの監獄

今日のOshoの言葉。

人は束縛されてはいない、
そう思っているだけだ。
そう思うから現に
束縛されているのだ。

ブッダとふつうの人の
あいだに違いはない。

しかし人は違いがあると思っている。
そうなったら違いがある。

あなたがたは自らの監獄、
  自らの錠をつくりだす。

そうしておいてそこから
抜けだす方法を見出そうとする

            Osho
 

この世界は、すべて自分で自作自演しているだけ。

このOshoの言葉を読むと、そんな感じがします。

自分はこの世界をどう見ているのだろうか?

そういうことを考えさせられました。

「仏陀と自分の間に違いはない」とOshoは言っていますが、

これは第4の次元で見た場合には、その通りです。

禅の公案に、「犬にも仏性があるか?」という問いがあります。

「仏性は誰にでもある」

というのが悟りを得た人が言っていることです。

つまり、悟りを得た人の目から見た場合、誰もが仏性を持っているのです。

悟りを得ていても、得ていなくても、違いはありません。

単にそのことを自覚しているかどうかの違いだけです。

それは、
ハートがあると思っていなくても、
誰にもハートがあるのと同じです。

第4の次元は、「存在」の次元であり、その「存在の次元」では、誰にも仏性があるのです。

存在の次元に生きている人にとっては、それが「ふつう」であり、「自然」なことなのです。

しかし、私たちはふつう、2次元の世界に生きています。

二次元とはマインド(思考)の世界です。

つまり、2次元は私たちの思考(マインド)によって作られています。

ブッダ(覚醒した人)から見れば、それは幻想の世界だとも言います。

このことを、Oshoはもう少し現代的な例えで説明しています。

Oshoによれば、私たちの世界は、ちょうど映画のスクリーンのようなものだと言います。

映画の映像は、幻灯機によって、
光源の光がフィルムの映像を通して
スクリーンに映し出されます。

私たちが見ている世界、生きている世界も、そのスクリーンに映っている映像のようなものだと言うのです。

つまり、私たちのマインド(思考)が、映画のフィルムに該当します。

そのマインドのフィルムを通して見ている世界がこの私たちが見ている世界だということになります。

そのように考えると、

あなたがたは自らの監獄、
自らの錠をつくりだす。

そうしておいてそこから
抜けだす方法を見出そうとする

ということがよくわかります。

私たちは、私たちの思考、信念、思い込み、偏見、色眼鏡を通して、

私たちの世界、「自らの監獄」「自らの錠」を作り出します。

自分の信念や思い込みでがんじがらめにしておいて、そこから自由になろうともがいているのです。

こんな悪夢を見たことありませんか?

何かに追いかけられたり、崖から足を踏み外して、絶体絶命になって、

ハッと目が覚めたら、それは夢だったということ。

ハッと目が覚めたら、それは自分が作り出した「監獄」だったとわかるのですが、

夢の中にいるときは、私たちはそのスクリーンの中に作り出した「監獄」の世界に生きていることになります。

そのように自分で「監獄」を作っておきながら、私たちは、「そこから抜け出す方法」を探し求めているのです。

そんなことをOshoは私たちに教えてくれています。

 

今日はここまでにします。

えたに