「存在と悟り」シリーズ(4)

Oshoの言葉

「存在と悟り」シリーズ(4)

それが起こった最初のときは、
それはほとんど想像のように見える。
夢のように思える
そして、それはとてもリアルだ。

あなたがこれまで現実として
知っていたすべてのことが、

その前では色褪せてしまう。

それはあまりにリアルで、
それには本質的な確かさがある。
それは自明だ。
あなたはそれを疑うことはできない。

それが、ミニさとりが
起きたかどうかの基準だ。

あなたは疑うことができない
疑おうとしても、
疑うことはできない。

それはあまりにも確かなので、
その瞬間には何の疑いも生じない。
それはただそこにある

それはちょうど
太陽が昇ったかのようだ……

どうして疑うことができる?

そうすると2回目は、
より意識的に
手探りするようになる。

今やあなたは
それがあることを知っている。

今やあなたはそれが
あなたに起こったことを知っている!

今では、大きな確信がある。
       Osho

それが「存在」に出会った時の、見分け方です。

仏教では、

「真の一念に 真仮を分つ」という言葉があります。

目覚めた時に、夢だったことがわかる、というような意味です。

仏陀は、この世は幻想、自我は幻想だと言います。

でも、私たちがそれを現実だと思っているので、その夢(幻想)から目覚めない限り、自分が夢の中に生きていることはわかりません。

でも、夢から目覚めた時に、初めて、あぁ、あれは夢だったんだって、わかるのと同じです。

ミニさとりで、目覚めたときには、それまで夢の幻想の世界に生きていたんだ!

ってことがわかる、っていうわけなんです。

でも、私たちは、また
二度寝、三度寝、四度寝、
をしてしまうわけです。

マインドにとっては、
寝ている夢の方がリアルで、
居心地が良いわけですからね。

そして、夢に戻った時には、「あれって、夢だったよね」って思うわけです。

でも、やっぱりあのときの体験の方が本当だよねって思う気持ちが残るので、

再びその体験を求めて手探りし始めるわけなんですね。

でも、悟りって、蜃気楼のようなもので、求めれば求めるほど、

その悟りを得たいという欲望が邪魔になって、

逆に悟りが手に入らなくなるっていう、

逆説的な法則があるので、悩みますよね笑

あなたは疑うことができない
疑おうとしても、疑うことはできない。
それはあまりにも確かなので、
その瞬間には何の疑いも生じない。
それはただそこにある

これは、悟りを得た人に出会った時にも同じことが言えるかもしれないですね。

この人、悟っている、っていうのは、

やっぱり疑いようがなく、そこにあるものですからね。

今日はここまでとします。

えたに