「家族に対する責任」シリーズ(6)

 

「家族に対する責任」シリーズ(6)

Oshoの言葉:

責任は謙虚な人の資質ではない
それはエゴイストの資質だ

誰もが自分に
義務を負うように仕向け、

誰もが乞食になり、
自分が与える側になりたい

彼は常に優位に立ちたい
誰もそのような人を
許すことはできない

人々の中では尊敬の念を抱いていても、
その背後では、彼らは皆、
完全に侮辱されたと感じている

そして、彼らは復讐する

愛は決して屈辱を与えることはない
だから復讐の問題はない

愛は、シンプルに
ただ与えることを喜ぶ

愛は与え、愛は忘れる
誰に与えたかさえも、
何を与えたかさえも覚えていない
愛は、分かち合ったものを
全く記録していない

それを理解することが
できる人になら誰にでも、

その瞬間、瞬間、その歌を歌い続ける

それを受け取ることができる人は、
それを受け取るだろう

しかし彼は
社会奉仕をしているわけでもなく、

公務員でもない
彼はどのように祝福するかを
知っている人なのだ

           Osho

責任として物事を行うときは
義務として行うことになります。
それはマインドからの行動です。

愛からものごとを行うときは、
その瞬間瞬間の応答(リスポンス)から行います。
ハートからの行為です。

その瞬間、瞬間、その歌を歌い続ける
それを受け取ることができる人は、
それを受け取るだろう

愛から行動する人はそれを受け取ってもらうかどうかは関係なくなります。

愛は、ただ愛することの中に喜びがあり、分かち合いだからです。

それを受け取ってもらうかどうかは、相手の人の問題とも言えます。

受け取ってもらうことができれば、そのことが嬉しく、感謝であり、

受け取ってもらえなかったとしても、それも相手の人の自由です。

しかし、責任から、義務からものごとを行う時は、

自主的なものではなく、外から強いられたものであり、

自由からではなく、押し付けられたものと感じます。

それは嫌々行うものとなり、それをするときには、恩着せがましくなります。

相手に感謝を求め、してあげたことを忘れることがありません。

自分がやってあげたという意識が残り、相手よりも自分が優位だという意識がどこかにあったりします。

そういう人に対しては、感謝はしても、表面的なものとなり、

義務でしてもらったことに対しては、どこかに負担を感じてしまうので、復讐心をいだきやすくなったりしますね。

今日は、ここまでにします。

えたに