OSHO「道元」を語る

OSHOの生涯にわたる最後の2年間は禅の講話のみを語った。

彼は1985年にアメリカを出て、ワールドツアーのあと1986年にインドに戻ってからは体調に不具合が生じ、とりわけ最後の1、2年は寝たきりで過ごすことが多かった。

ただ、夕方の2時間の講話のときにだけ、ポーディアムに姿を現すのみだった。

禅の講話では、禅師と弟子との対話からなる禅の公案を題材に話すことが多く、その公案は「和尚」と呼ばれるマスターと弟子との逸話がもとになっている。

OSHOは禅の講話を続けるうちに、1989年2月に、それまで呼ばれていた「バグワン・シュリ・ラジニーシ」という名前を「和尚・ラジニーシ」に変え、同年9月以降は「和尚」とのみ呼ばれることになった。

それで、現在はOSHOとのみ表記されることになった。

「発つ鳥跡を濁さず」ではないが、禅の話でも、禅師が死ぬときには虚空に消える話があったり、すべての生きた痕跡を消してしまう話が見受けられる。

このOSHOに到る名前の変遷は、ある意味では、OSHOは自分の痕跡を消して、虚空に還ったということを象徴しているのかもしれない。

それはともかく、このOSHOの「道元」の講話は、私がOSHOに「正法眼蔵」の英訳を送って、1週間後の1988年7月25日に始まった。

OSHOがその私が送った「正法眼蔵」について語るということは、私のOSHOへの質問のすべてに答えてくれる事件だと言ってよい。

OSHOは常に弟子からの質問や、訪問者からの質問を取り上げて講話で話していたが、ついに私の全生涯にわたる質問に答えてくれることになったのだ…と私は思った。

「生きるとはどういうことなのか?」「死ぬとはどういうことなのか?」「自分はいったいなん(誰)なのか?」

それを突き詰めた答えが欲しくて、「悟りたい」と思って禅にのめり込んだわけだが、そもそも悟りって何なのか? それのために師を求めてOSHOに出会ったのだ。

その私の問いに、OSHOはこの講話を通して答えてくれるのか?

OSHOは語る。

「禅の世界では、その臨在が自分を満たしてくれるような人を見いだす時まで、この師からあの師へと探求者が遍歴を続けることは、常になされていた修行だった。
その人の臨在の中では、彼らのそれまでつけていたすべての仮面や防御は落ちる。
その人の臨在の中では、彼らは突如として裸になり、
生まれたばかりのように無垢になれる。
そうなれば、それが自分の師を見いだした徴だった」

まさに私は、禅の世界から師を求めて遍歴し、OSHOに出会ったのだ。

道元の「正法眼蔵」言葉に続けてOSHOは語る。

「マニーシャ、これは最も古い問題のひとつだ。
どのように師を見分けるのか、ということが。
なぜなら、師なしではほとんど何の道もないからだ。
私は、ほとんど、と言う。
というのは、おそらく百万人に一人は師がいなくても真理に到達するかもしれないからだ。
しかしそれは全くの偶然にすぎない。
それをルールにすることはできない。
それはルールを証明する例外にすぎない。
そして、師の大きな関心事は、人々に師を見分ける方法を説明することだった。
なぜなら、師こそが「道」だからだ。
誰か自己覚醒した人を見ない限り、あなたは、自分も覚醒できるのだという信頼を自分自身に対して持つことはない。
ひとたびブッダを、悟りを得た人を見たら、あなたの内側に途方もない炎が突如として花開き始める。
「もしこの美しさ、この優美さ、この知恵が、この至福が満ちあふれることが誰かに起こりうるなら、それならどうして自分に起こらないことがあろうか?」
と。

まさにその通りだった。

OSHOの言葉は、自分でも言葉にできないことを微に入り細に入り、正確な言葉にしてくれることがよくあるのだが、まさにその通りのことがOSHOに会うことで、私に起こったのだった。

OSHOは続ける。

「人間である限り、私たちはその同じ種、同じ可能性を宿している。
だが、たとえあらゆる可能性が開かれているにもかかわらず、種は種のままでとどまり、
けっして花になることはないかもしれない。
しかし種は、土の中に消えてしまうよりは、石の洞窟に隠れて、外は雨が降りすぎると思ったり、外は陽が照りすぎていると心配したり、未知なるものに脅えたりしながら、安全なままでいることもありうる。
種は洞穴の閉ざされた静けさの中で居心地よく感じる。
しかしそこでは成長することができない。
そこにいればただ腐っていくだけだ。
そこにいたのでは、種は、ただ単に何かであるにとどまる。。。
美しい表明になりえたかもしれないのに、それは表明されないままとどまる。
歌われなかった歌、書かれなかった詩、生きられなかった人生だ。

自己の高みを達成するという挑戦(チャレンジ)をあなたの内に駆り立てることのできる人を見つけることは非常に重要だ。
師は挑戦以外の何ものでもない。
もし私に起こったのなら、それはあなたにも起こりうる。
そして真正な師は──教義や信仰、哲学を提唱している教師たちは五万といるが──真正な師は言葉には関わらない。
真正な師はただひとつのことのみを配慮する。
それは、自己の可能性を見るように、内側を見るようにとあなたを駆り立てることだ。
師の臨在はあなたを沈黙させる。
師の言葉はあなたの沈黙を深める。
まさに師の実存(ビーイング)そのものが、ゆっくりとあなたの虚偽を、あなたの仮面を、
あなたの人格を溶かし始める」

OSHOという師に出会うということは、まさにその通りのことだった。

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