マスターとはどういうことをする人なのか?
マスターというのは、私が実際に会って知っているのはOshoだけです。
禅の伝統では、まず自分のマスターを求めて、寺から寺へと渡り歩く伝統があるといいます。
私もいろいろと本を読んで、これはと思う人がいたら、会いにいったり、話を聞きにいったりしたものです。
その一環で、Oshoの本を読んで、この人にはぜひ会ってみたいと思い、当時(1985年)アメリカにいたOshoに会いに行ったのでした。
当時はまだOshoの本も、日本語で出版されている本は限られていたので、日本語の本では足りず、英語の本を取り寄せて、手に入る本はほとんど読んでいたのでした。
そのころの私は、Oshoのことはすごいと思うけれども、弟子の人たちはちょっと自分とは人種が違うようなので、弟子にはならないでおこうと思いながら、Oshoに会いに行ったのでした。
でも、Oshoに会ってしまうと、そういうわけにはいかず、結局自分が本当に求めているものを得るには、弟子になるしかないとわかったので、弟子になってしまった、という経緯があります。
ですから、最初はOshoのことを頭で理解しようと試みて、結局その限界を思い知って弟子になったということになります。
その経緯があるので、教師と生徒の関係、マスターと弟子の関係、というのはよくわかります。
もともとが懐疑派なので、たいていのことは疑ってかかり、自分で納得するまで検証する方なので、Oshoの言葉も自分の体験にてらして検証もするのですが、実際の自分の体験に照らしてみても、Oshoの言葉には嘘がない、と感じます。
マスターは教えない
彼は実証する
彼の存在全体が
ひとつの実地証明
(デモンストレーション)だ
彼は新しい次元をひらく
そしてそのいくつもの次元を通して
その新しい展望台
新しい窓を通して「見る」ようにと
あなたがたを招く
マスターは実地に示す
教えはしない
たとえ教えたとしても
それはあなたがたの知性を説得して
ものごとがまったくちがって見えるような
マスターの窓にまで来させようとするためだ
その上 マスターとは
最高の技に達していなければならない
つまり人間の<ハート>にかかわる技だ
というのも それに関しての問題は
なんとも微妙で
しかも非常に複雑に込み入っているからだ
Oshoとは、まさにそういう人なのです。
Oshoはときどき、情報(知識)としてはとんでもないようなことを語りますが、でも、そのなかにも必ずある真実があります。
頭で聞いていると、「え!その情報は間違っているでしょ」と判断しますが、ハートで聞くと、その語られていることのなかに、ある真実が伝わってきます。
マスターに出会うには、まさにハートで出会うしかありません。
ハートで出会うことのメリットは、ハートでは時空を超えているということです。
私は、仏陀に会いたくて、マスターを捜しました。
そしてOshoに出会ったのですが、Oshoに出会ってわかったことは、今も仏陀にも出会えるし、キリストにも老子にも出会えるということです。
そしてOshoとは、今も出会っています。
ハートでつながりさえすれば、時空を超えて古(いにしえ)のブッダと出会うことができるのです。
Oshoはその道を教えてくれたのです。
前置きが長くなりました。
マスターはどういう仕事をする人なのか?
Oshoは語ります。
この神話は美しい
これは多くのことを語っている
一つは 何百万人のなかから
<覚醒>に達することができるのは
一人しかいないということだ
それともう一つ
覚醒に至ることも実に困難なことだが
それ以上の困難があることを
あなたがたに話したいと思う
<覚醒>を得るのが何百万人のうち
たった一人だとすれば
マスターになることができる人は
何千人かの覚醒者のうち
一人ぐらいしかいない
マスターになるというのは
ほとんど不可能に近い
自分が覚醒に至るためには
自身に働きかけるだけでいい
自分の内部の障害や壁へのはたらきかけ
どっちにしても自分自身への
はたらきかけだけですむ
しかし マスターになるためには
他者の内部の障害や壁に
はたらきかけなければならない
自身にはたらきかけることすら
大変なことだというのに
他者にはたらきかけるなどということは
もう不可能に近いことだ
覚者(ブッダ)は多く存在したが
覚者がマスターになることはめったにない
ゴータマ・ブッダの名前が有名なのは
そのマスターとしての存在によるものだ
無数の覚者が彼以前にもあらわれたが
彼らはマスターではなかった
「あなたが死ぬまでは」より
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この講話が語られたのは1975年4月14日。
Oshoが弟子を取りはじめ、西洋からの人々がOshoのもとに集まりはじめたのが、1974年ごろからなので、この講話は、その集まりはじめた弟子たちに向けて語られています。
この講話の翻訳者ナルタンは日本人のOshoの弟子の先駆けですが、彼女がこの講話を翻訳しているのは、彼女はこの講話を実際にOshoの前で聞いたのでしょう。
私がOshoの講話の「道元」を翻訳したときも、その講話が私がOshoに送った「英訳正法眼蔵」について語ってくれたものだったからです。
そのナルタンはOshoの身近にいて、日本人の通訳者だったので、OshoからOshoの本を翻訳するように言われながら、ずっと抵抗し、最初に訳したのが禅の公案について語った「草はひとりでにはえる」でした。
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そして、そのあとに訳したのがこの「あなたが死ぬまでは」のスーフィーの講話です。
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ナルタンはこの講話を聞き、そしてそのなかに、何か自分のなかに深く受け取るものがあったのでしょう。