社会は恵まれない人々に責任はありますか?
Does Society Have a Responsibility to Its Disadvantaged People
この質問に対してOshoは意外な答えをします。
「責任はない」というのです。 質問者も、あまりに意外なこのOshoの答えに、聞き返しています。
なぜOshoがそのように言えるのかは、彼の言葉を聞いているうちに理解できるようになります。
責任や義務から物事をすることと、愛から物事をすることとの違い。 子育ての本質について語られています。
質問 「社会は恵まれない人々に責任はありますか?」
Osho 「ない」
質問 「ないのですか?」
Osho
「ない 社会は
そもそも人々を破壊しておいて
そのうえで
責任について話し始める
どの子供も
社会によって破壊されている
自分の本性から
気をそらされている
自分がなるべきものであったものから
気をそらされている
存在が定めた
自分のあるべき姿から
気をそられている
最初に社会は
子供の気をそらすことをする
子供の邪魔をする
そして子供の気がそらされたら
こうした偉大な政府の役人たちが
やってきて 言い始める
社会には責任があるのだと
これは非常に狡猾なゲームだ
最初に人を病気にしておいて
そして そのあと
あなたの責任を
サービス 義務 人間性
慈愛を満たそうとして
薬を与える
しかし そもそも
なぜその人を打ったのか?
すべての子供はとても無垢に
生まれているのだから
もしあなたが
子供をあるがままにしておけたなら
あなたが彼を愛しているなら
そして 愛は責任ではない
思い出したのだが
短い逸話がある
一人のヒンズー教の僧侶が
ヒマラヤの最も高地にある
ヒンズー教の聖地
バディリ・ケダールに
旅をしていた
それは長い旅で 退屈で
ちょうど彼の前に
12歳か、13歳にも満たない
一人の小さな少女がいた
彼女は 太っていて 重そうな
男の子を背負っていた
その僧侶は とても疲れていて
その少女を追い越すときに
少女に言った
「娘よ 彼も疲れたんだろうね
あなたは そんな重荷を
運んでいるんだからね」
少女はとても怒って言った
「重荷ですって?
重荷を運んでいるのはあなたでしょ!
これは私の弟よ」
愛は責任ではない
愛は義務ではない
愛はあなたの喜びだ
だから あなたの愛から
できることは何でもしなさい
しかし
あなたのキリスト教からではなく
あなたのイデオロギーからではなく
責任感というものからではなく
さもなければ あなたは決して
あなたの息子を許せないだろう
そしてあなたの息子も
決してあなたを許せないだろう
「義務」は汚い4文字語だ
決して義務から
何ごともしてはならない
なぜなら
あなたは渋々それをしているからだ
そうなると
それを誰のためにしていようと
あなたは侮辱していることになる
子供はそこにいる
まるで花のように
あなたは そんな責任を
バラの花に持っているだろうか?
もちろん 水をやり
いくらかの肥料をやる
だがそれは責任ではない
それはあなたの喜びだ
なぜなら あなたのバラは
より大きく そして
もっと良い香りも放つようになる
あなたがしていることは
あなたが得るものに比べたら
なんでもないことだ
あなたは どんな慈愛も
バラの茂みに与えてはいない
実際は バラの茂みの方が
あなたに慈愛を与え始める
あなたは何をしたのか?
ただ少しの水と肥料を与えて
世話をした そしたら
バラの茂みはすべての感謝と
すべての花とともにやってきて
そして あなたの家全体が
香りにつつまれる
突然
あなたはもはや普通の家にいない
あなたは宮殿にいる
あなたは楽園にいる
その同じことが子供に起こる
彼らもまた花なのだ
彼らを養いなさい
だがそれは
あなたの義務からではなく
あなたの愛からだ
もし愛がないなら
どうか 何もしないでほしい
さもなければ
あなたは
その子供を破壊することになるだろう
愛こそが 唯一の安全なのだ
子供は傷つきやすい
配慮を持って扱いなさい
責任とは
あまりに大きな言葉で 重すぎる
義務はただ醜い」
続きはビデオでご覧ください。
今日はここまでにします。
えたに