瞑想の土台を築く

瞑想の土台を築くには楽天的でありなさい、とOshoはアドバイスを与えていますが、では、どれぐらい楽天的であればいいのでしょうか?

物事を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかの見方の例として、よくあげられるのは、コップに水が半分ある場合に、どのように考えるかということについてです。

コップに半分しか水がないと思うのか、コップに半分も水があると思うのかで幸せ度が随分異なります。

前者だとがっかりするし、後者だとハッピーになったりします。

しかしOshoがここで語っている楽天度はさらにもっと大きなものです。

コップに10分の1の水が入って入れば、これから水がどんどん増えていっていっぱいになるに違いないと考えなさい、というぐらい楽天的です。

それに反して、普段私たちは、コップに9割の水が入っていても、「1割の水が足りない」、あるいは、「水が1割も減ってしまった」と考えるようなものの見方をしています。

しかし実際は水が増えていくのか、減っていくのかなんて、誰にもわからないことです。

瞑想は目には見えないものだし、それを体験している本人にしかわからないものです。

それだけに、実際にそこで起こっている体験が一体本物なのかどうなのか?単なる妄想に過ぎないのか? 
その瞑想の途上では実に様々なことが起るので、それを正確に見極めることのできる指導者につくことが必要だと言われるのはそういうところにあります。

だから禅などでは、最初にマスター(師)を探し求めるが大切で、自分の師を探し求める旅に出たりもします。

それはともかく、瞑想の道にあってはOshoほどその道を極め、その究極まで至っている人というのは私の知る限りではどこを探してもいません。なので、まずは素直に彼のアドバイスに耳を傾けることが早道です。

瞑想している中で、一条の光が見えれば、それは太陽が存在する証拠だと考えて、その光に向かって歩みなさい、そうすればあなたは太陽が存在する源泉にたどり着く、とOshoは言っています。

もうひとつは
「この暗間にもかかわらず、
少なくとも一条の光がある。
そしてその光線のほうヘ行けば、
太陽が存在する源泉に
辿り着くだろう」
と考えることだ。

だからわたしは、
暗闇のことばかり考えないようにと言う。

たとえかすかでも、
わずかであっても光線があるなら、
暗闇のことばかり考えないようにと言う。

たとえかすかでも、
わずかであっても光線があるなら、
それに集中しなさい。

それはあなたに肯定的な見方を
芽生えさせてくれるだろう。

普通、あなたの生は正反対だ。

わたしが薔薇の茂みを見せたら、
あなたは言うだろう。

「そこに見るべき何ものが
あるというのです? 
存在はまったく不公平です。
薔薇の花は三つか四つなのに、
棘は何千とあるのですから」

これはひとつのとらえ方であり、
ひとつのアプローチだ。

別のとらえ方ならこう言うだろう。

「存在は実に神秘的です。
あの何千もの棘の中から
薔薇を創造したのですから」。

あなたは、こんなふうにとらえて
言うこともできるだろう。

「あの棘だらけの中に、 
一輪の薔薇……。
神秘的な世界ではありませんか― 
あの棘だらけの中で薔薇が
咲く可能性たるや、
本当に奇跡のようです」

だからわたしは、あなたに
二番目のアプローチをとってほしい。
この二日間、瞑想の中でとらえた
かすかな希望の光線から土台を築き、
それを堅固なものにしなさい。

それでは、太陽に向かっての歩みを進めましょう。

今日も希望に満ちた一日を。

今日はここまでにします。

えたに