Oshoが語る言葉が真実なのは、それが自分自身の探求と体験に基づいているからです。
なので、「自分にできたのだからあなたにもできるよ」とOshoは導いてくれているのです。
すでに悟りを得て、マスターとなっているOshoを仰ぎ見ている限りは、「それはOshoだからできたんだ」って思ってしまいがちですが、でも実は、Oshoも探求していた苦しい時代があったんだよ、と語ってくれているわけです。
Oshoはあらゆるレベル、あらゆる人たちに向かって話していますが、それはOsho自身がそれらのあらゆるレベル、あらゆる層を自分自身で探求してきた時代があったから語れることです。
この「ディヤンスートラ」でのOshoの話は、まさにこれから瞑想していこうという人たちにとってとても有益です。
この瞑想キャンプは、まだOshoがプネに瞑想のためのアシュラムを持つ前に、様々なところの集まりで講演会などに招かれ、話しをしていた時代に開催されていたものです。
そして、Oshoの話を聞くだけではなく、実際に瞑想してみよう、真理を体験したいと思うに至った人たちが、この瞑想キャンプに集い、瞑想を得る機会を得たのです。
「昨晩は、どうやって内側に
瞑想の土台を築くかについて話をした。
わたしの瞑想へのアプローチは、
どの教典にも、どの聖典にも、
枝分かれしたどの学派にも
基づいていない。
わたしはただ、
自分が辿ってきた道について、
自己の内側に入ることで
知った道について話しているだけだ。
だから、わたしの話はただの理論ではない。
それを試してごらんとあなたを招くとき、
あなたも自分が渇望しているものを
見つけることに成功するだろうと、
わたしは確信している。
わたしは、自分の体験しか
話さないので安心しなさい。
私は、強烈な苦悩と痛みの時期を
通り過ぎなければならなかった。
試行錯誤の時期を
通り過ぎなければならず、
その時期わたしは
内側へ向かおうと奮闘した。
この方向へ向かうあらゆる道、
あらゆる小道を試みようと、
たゆまず努力した。
その頃はとても苦しく、
苦悩と痛みに満ちていた。
しかし常に努力が
絶えることはなかった。
そしてこの努力のおかげで
――大きな滝が遥かな
高みから落ちて、
絶え間のない水流が
岩をも穿つように
――たぬまぬ努力によって、
わたしは滝のように
突破口を見つけた。
わたしは、自分がこの突破口を
見つけた手法について話すだけだ。
だからわたしは、
絶対的な自信と確信を持って
言うことができる。
この手法を試みたら、
成果は絶対保証される。
当時は痛みや悲しみがあったが、
もはやわたしの中には
痛みも悲しみもない。」
未だにその境地に達していないのは、そのための努力がまだ足りないのかなぁ、と思ったりもしますが、少なくともその境地の幾分かは味わい、少なくとも痛みや悲しみに同一化することが少なくなっているのはその成果と言えるのかもしれません。
「わたしは沈黙を体験する。
瞑想を体験する。
わたしは瞑想を体験すると決めた」
それでは今日も、心安らかな一日を!
Have a nice day!
えたに