普通、私たちは愛するものに執着してしまいます。
「愛着」ということばがあるぐらいで、
愛するがゆえに執着するのだと思ってしまっています。
しかし同時に、執着するがゆえに苦しみ、執着すれば執着するほど、泥沼にはまってしまい、血みどろの戦いになってしまう。というのは離婚劇などでよく見られる現象です。
でもそうなったときには、そこには未練はあっても、愛はなく、逆にそれまでの美しかった愛の思い出さえも破壊してしまいます。
愛が執着になってしまうのは、愛を相手に求めるときです。
相手の中に愛があって、自分の中には愛がなく、相手から愛されることを求めているときです。
愛が分かち合いであるとき、愛は自分の中にあり、その愛を相手が受け取ってくれることに感謝を感じます。でも、相手がその愛を受け取らないにしても、それは相手の自由なわけで、そこには執着は生じません。
自分の中の愛を分かち合っているのか、それとも相手からの愛を求めているだけなのか?
それが、愛が執着になるのかどうかの分かれ道になるように思われます。
執着と愛はひとつだという考えを捨てなさい
ふたつは敵同士だ
すべての愛を破壊してしまうのが執着だ
執着を育めば、執着を養えば、
愛は破壊される愛を育み、養えば、
執着はおのずと消えてゆく
愛と執着はひとつではない
ふたつは別の存在であり
互いに相容れないものだ
「ゴールド・ナゲッツ」 by Osho
執着を育むとは、相手から愛を奪おうとすることです。
愛を育むとは、自分の中にある愛を育むことです。