普通であること

私たちはいつも、特別な人間になろうとしています。

いつも誰かと競争し、比較し、優れた人間になろうと努力しています。

現代社会の教育は、そのような優れた人間を評価し、競争社会に勝ち抜くことのできる人間になるようにと教育しています。

そのような特別な人間になれない人は価値がないように思われてしまいがちです。

そのように教育を受けてきた人にとっては、普通の人間になるということは、ある意味、価値のない人間になるようにと言われているように思ってしまいます。

ところが、

Oshoが自分のことについて、
常に語っていることは、

自分は普通の人間だ、

ということです。

私は、それほど
宗教的な人間ではないし、

聖人ではないし、
精神性(スピリチュアリティ)とは
何の関わりもない。

それらの範疇のすべては、
私については関係がない。」

https://oejbooks.com/osho/

それでは「普通の人間」ということでOshoが意味しているのどういうことなのでしょうか?

質問者:
私たちに あなたとおなじくらい
普通になって欲しいとおっしゃるのは
どのような意味ででしょうか?

Osho:

人が普通になることはない
あなたは異常にならなれる

何かになるという過程そのものが
あなたを普通であることから遠ざける

だから 普通であることに関しては
どうやってという問題はあり得ない
あなたは普通だ

あなたはなる必要はない
あなたはなることを
落とさなくてはならない

あなたは生き始めなければならない

世界には2種類の人びとがいる
常に何かになろうとする人たちがいて
そのあれやこれやになろうという
努力のせいで
自分自身であることを失っている

彼らは時間を 生を
エネルギーを失っている

彼らの「なる」には終わりがない
それは水平線のようなものだ

そこにあって
近くに見えて届きそうだ

ほんの数キロ先だ
しかしその数キロを歩めば
水平線は 再び後退して見える

距離は常に同じままだ
「なる」ことの綱に捕らわれた人は
一生を無駄にする

満たされずに死ぬ
そこ知れぬ絶望のうちに死ぬ

なぜなら彼は
生きるために
生が彼に与えられていたのに

自分の 何かに
誰かになろうという欲望のせいで
自在に手に入るはずだったものすべてを
犠牲にしたと知るからだ

人は普通にはならない
あなたは普通なのだ

あなたは普通として生まれる
存在の 他のあらゆるものと同じだ

動物たち 鳥たち 木々
どの鳥も 普通である必要はない
どの木も どうやって普通であったら
いいのかとは問わない

しかし人は尋ねる
そしてこの 何かになろうという
過程そのものが
あなたを狂わせる

誰かになろうとするのをやめなさい
何かの規律や 何かの経典
何かの理論に従わなければならない
という考えを 落としなさい

イエスや仏陀やマハヴィーラのようで
いなくてはならないなんて
すっかり忘れてなさい

そうすれば 突如としてあなたは
自分があるべき自分でいるのに気づく

それを生きてごらん
喜びに満ちて 罪悪感なく
存在はそのままのあなたを望んだ
       Osho

ここでOshoが「普通の人間」ということで意味していることは、

そのままであることです。

しかし、現代社会では、私たちは不自然になり過ぎていて、

そのままであることができなくなってきています。

そのままであることがどういうことか、わからなくなっています。

だから、普通になって欲しい、ってどういう意味なのでしょうか?という質問が生まれます。

そこで、Oshoは、

あなたは普通として生まれる
存在の 他のあらゆるものと同じだ

とかたっています。

つまり、存在とともにあることが、「普通」であることだと言っているようです。

そうすれば 突如としてあなたは
自分があるべき自分でいるのに気づく
それを生きてごらん
喜びに満ちて 罪悪感なく
存在はそのままのあなたを望んだ

そのように生きるためにどのようにすれば良いのか?

ということについて、Oshoは次のように語っています。

内側に入りなさい
自分自身の存在の中にくつろぐのだ

くつろぎが深くなるにしたがい
しだいにそれが確かな現象になり
自分が何物にも
妨害されることがなくなったとき

サイクロンの中心になったとき、
至福が生まれる

むろん、至福にあふれる者は、
社会にも祝福を与える
     Osho

今日はここまでにします。

えたに