「家族に対する責任」シリーズ(3)
ここで語られているのは、
愛があれば責任はいらない、
ということです。
逆に、責任というのは、
義務によってなされるものであって、
義務としてするものごとには、
どこかで、強制されて、
いやいやするという印象があります。
そしてその義務はどこからかというと、
神、国家、家族、宗教などによって作られます。
それに対して、
愛からなされるものは、
自分から、自主的に、
喜びを持ってなされるものであり、
創造的であり、
分かち合いによるものになり、
それは義務によって課されるものよりも、
さらにもっと多くのことがなされるようになる、
ということが語られています。
Oshoの言葉:
愛は責任というものを知らない
愛は、多くのことを行う、
愛は非常に創造的であり、
持っているものをすべて分かち合う
しかしそれは責任ではない
覚えていなさい
責任は、愛に比べると醜い言葉だ
愛は自然なものだ
責任は、神の名において、
国家の名において、
家族の名において、
宗教の名において
あなたを支配したい
狡猾な司祭や政治家たちによって
作り出されたものだ
それらはどんな
フィクションの名でもよい。
Osho
> それらはどんなフィクションの名でもよい。
神、国家、家族、宗教、それらはすべてフィクションだ、
とOshoは言うわけですね。
個人しかいない、というのがOshoの考え方です。
神はいない、というのはニーチェを待たなくても、
仏陀はそもそも神のことは言っていませんし、
国家も地図の上に国境の線を引いているものであって、
人為的に作られてものです。
そのことによって戦争が作り出されています。
家族というのも、そこにいるのは、個人です。
宗教というのは宗教組織のことを言っています。
責任というのは、英語ではリスポンシビリティですが、
それはその瞬間瞬間の自発的な応答(リスポンス)であって、
責任とか義務のようなものは重荷となるもので、
それは愛に比べると醜い言葉だと、
Oshoは語っているわけです。
愛とは何か?
責任とは何か?
ということについて、
深く考えさせられる言葉です。
今日はここまでにします。
えたに