理解はハートにある

Oshoの言葉

理解はハートにある

理解はマインドでするものではない
理解はハートでするものだ
あなたは恋に落ちなければならない

それがサニヤスのすべてだ
マスターと恋に落ちること

まったく何の理由もなく
ただ純粋な喜びのために
消えてしまった人、
もういなくなってしまった人、
大いなる無になってしまった人
静寂になってしまった人と
恋に落ちるということだ
       Osho

ここで、マスターというのは、

> 消えてしまった人、
> もういなくなってしまった人、
> 大いなる無になってしまった人
> 静寂になってしまった人

ということを象徴しています。

Oshoを知っている人なら、
Oshoになるかもしれないし、

あるいは、
他に、自分のマスターがいる人であれば、
その人であってもいいでしょう。

あるいは、マスターがいなければ、

その象徴となるものを決めてもかまいません。

それは仏像であるかもしれないし、
何か自分の大切にしているものであるかもしれません。

大いなる無になること
静寂になること

を象徴するもの。
それを助けてくれるものであればいいでしょう。

というのは、

Oshoがここで言っていることは、

> まったく何の理由もなく
> ただ純粋な喜びのために
> 消えてしまった人、
> もういなくなってしまった人、
> 大いなる無になってしまった人
> 静寂になってしまった人

となることをサポートするために、
マスターというものが存在している、

ということを言っています。

それが理解できるのは、
ハートであって、

マインドにはそのことは理解できない、

ということを言っています。

マインドには理由が必要です。
なんの理由もなく、何かをすることはできません。

マインドには、純粋に喜ぶことはできません。
喜ぶためには、何か理由が必要です。

マインドには、恋に落ちることはできません。
恋に落ちるには、マインドは盲目になる必要があります。

マインドには、

消えることも、
いなくなることも、
無になることも
静寂になることも、

できません。

それができるのは、ハートです。

でも、ハートといえども、

直接、消えてしまうことや
いなくなること、
無になること、
静寂になることを
理解することは難しいかもしれません。

なぜなら、その経験がないときには
それがどういうものかがわからないからです。

そもそも、ハートとはどういうものかさえ、
それを体験するまではわからないでしょう。

そんなとき、
恋に落ちることなら、
ハートは簡単にできます。

なので、

> 消えてしまった人、
> もういなくなってしまった人、
> 大いなる無になってしまった人
> 静寂になってしまった人

がいれば、

しかも、幸運にも、
そういう人がマスターなら、

そのマスターに恋に落ちるのが、
一番簡単なやり方です。

ここでいう理解とは、

消えてしまうこと
いなくなること、
無になること、
静寂になることを

理解することを意味しています。

逆に言えば、

ハートの質として、

純粋な喜びを持って、

消えてしまうこと
いなくなること、
無になること、
静寂になる

ようなスペースがあります。

そのハートの味わいを
味わうことができれば、

マスターはいらないとも言えます。

あるいは、
そのようなマスターがいれば、

そのとき、
そのようなハートとともにいれば、
マスターとともにいることができる
とも言えるでしょう。

あるいは、

そのようなマスターに恋に落ちた時、
マスターはいない。

ただ、あなたは
マスターとともに

消えてしまい
いなくなり
無になり
静寂だけがある

ということになってしまうでしょう。

今日はここまでにします。

えたに