ここでいう「ブッダ」とは、歴史上の仏陀ことであり、悟りを得た覚者としてのブッダのことであり、そして、Osho自らのことでもあります。
Oshoが、なぜこれほどまでに誤解を受け、非難されてきたのか?
それは、Oshoは多くのタブーに触れ、人々の神経を逆なぜしたからだけではなく、ブッダだからでもあります。
Oshoは誤解される定めにあったのです。
このOshoの講話は、これまでのインド国内での一般の人々への活動のステージを終えて、弟子を取りはじめ、これから世界に向けての活動をはじめたころの講話です。
このころのOshoの声と言葉には、エネルギーが満ち溢れています。
仏陀が初転法輪で、人々に話しはじめたころのような、そのような印象さえ受けます。
そのときの仏陀の気持ちが代弁されているかのようにも思えます。
Oshoは仏陀のことを語りながら、実はOsho自らの経験を語っているかのように受け取れます。
でなければ、このようには語れないでしょう。
質問はこうです。
「ブッダが常に誤解されるのは、まったく避けようのないことなのでしょうか?」
Oshoは語ります。
そうだ
それはまったく避けようがない
それ以外にすべはない
ブッダは誤解される定めにある
ブッダが誤解されないなら
彼は全くブッダではない
なぜそうなのか?
なぜならブッダは
マインドを超えたところにいるからだ
そして私たちは マインドに生きている
何かマインドを超えたものを翻訳することは
この世で最も不可能なことだ
それは無理だ
それでもすべてのブッダが
それをな成そうとしてきた
それもまた避けられない
ブッダにはそれを避けることはできない
ブッダは言わなくてはならない
言いようのないことを
彼は表現しなければならない
表現しようのないことを
彼は定義しなければならない
定義しようのないことを
彼はこうした不合理なことを
しなければならない
なぜなら 彼がマインドを超えた瞬間
偉大なる慈悲が生まれる
彼には見える
人々が暗闇でつまずいているのが
彼には見える
人々が必要もなく苦しんでいるのが
自分で自分の悪夢を作り出し
自分で自分の地獄を作り出し
自分が作り出した地獄で
溺れているのが見える
どうして慈悲を感じずにいられようか
そして慈悲が生まれた瞬間
ブッダは彼らに伝えたい
「これはあなたが自分でやっていることだ」
と
そこから抜け出すことは可能だ
抜け出す道がある
それを超えた道がある
生とはあなたが思うようなものではない
と
Oshoは、そこから抜け出すためには、あるものが必要だと語ります。
仏陀にはある、あるものが。
それが何かは、Oshoから聞いてください。
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今日はここまでとします。
えたに