誰かに追いかけられていて、でもどういうわけか足が思うように動かず「あぁ、もうだめだ! 殺される!」って思ったとたんに目が覚める、っていうような経験ありませんか?
悪夢にうなされて、目が覚めるようなこと。
あるいは、「あぁ、へんな夢を見たなぁ」と思いながら目が覚めたら、その「目が覚めた」と思ったことからも目が覚めて、「『目が覚めた』と思ったことも夢だったのか」と思ったことないですか?
でも、そういうふうにして目が覚めたときには「果たしていま自分が『目が覚めた』と思ったことも、ひょっとしたら夢で、ただ単にそう思っているだけなのかもしれない」と思ったり・・・
「胡蝶の夢」という話が荘子にもあります。
夢の中で蝶になってひらひらと飛んでいたところで、目が覚めて、「はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか?」という話です。
Oshoは次のように語っています。
「マスターの役目とは、
あなたが目醒めることができるような状況をつくりだすことだ。
それは非常に間接的で、微妙なワークだ。
そのやり方は、キリスト教の牧師や伝道師、
ヒンドゥー教の学者、ユダヤ教の教師たちが、
経典について語ったり、誰かの言葉を引用したりするのとは違う。
あなた自身でそれを体験しなさい。
それまでは決して立ち止まらないことだ!」
「これこれ千回もこれ―禅のまさに真髄」by Osho
マニーシャは、そのマスターであるOshoとともにいて、
その目醒めることができるような状況のなかでの彼女の体験を、
「和尚との至福の瞬間」のなかに書いてくれています。
この本を読むと、Oshoはどのようにして「目醒めることができるような状況」をマニーシャに作り出したのか、そしてその状況のなかでマニーシャはどのような体験をしていたのかということがわかります。
マニーシャは書いています。
「Oshoは、私が何時間もずっと静止し、沈黙していられるような空気をつくりだしている。
その中で、私のエネルギーは翼に乗り、ほとんど完璧なまでに満たされ、もうこれ以上のものは何もいらないというスペースへと飛翔する。
そのスペースの中では、頭や人格を脇に置き、境界線のない広漠たる広がりそのものになることが、ますます容易になる。
暝想はいま、恋愛だ。
’
瞑想して座っているとき以外は、頭に戻っている。
Oshoを誹謗する人々が、彼は弟子たちを洗脳し、考える能力も意志も失った人間にしていると非難しているのは皮肉だ。
というのも、私の体験はまったくその逆だからだ。
Oshoの言うとおり、頭から休みをとることで、頭は新鮮さを取り戻し、必要とされるときに、よりいっそう機能しやすくなる。
気がつけばたしかに、Oshoは私が想像していた許容量を遥かに越えて、マインドを使うように私を後押ししていた。」
OshoはマニーシャにOshoが話す禅の講話に対する質問を準備することを求めます。しかもまだOshoがその講話を話す前に!
まさに禅公案のような状況です。
「そんなことが続いてしばらく、そのこと自体が重要な意味を持つことに私は気づく。
つまり私に対するワークは、すべて痛いものに違いないと思い込んでいるということだ。
愛という、より微妙な働きかけを、私は理解していなかった。」
そのOshoの愛のなかでマニーシャは自分のマインドとその恐怖に気づかされます。
「それからOshoは、正しさと間違いに関する質問に立ち戻り、正しいとか間違いだという考え方、つまり道徳観は、私たち自身の発明であり、マインドのつくりだすものに過ぎないと言う。
『マインドを落とせたら、正しいとか間違っているということは消える』」
ここでのマニーシャとOshoとのやりとりというのは、まさに禅公案での師と弟子のやりとりの現代版を見ているようで、とても興味深いものがあります。
マニーシャは書いています。
「チェスゲームの名人のように、またもやOshoは私を王手詰めにした。
質問は、私自身の体験からやって來なければならない。
しか24時間という、ふたつの講話を隔てる時間の間に、だれがどのことを体験できるのだろうか?
彼が追い立てるので、私の自己を観察する能力は加速され、いっそう磨かれる必要があった。
彼は、私が限界を体験するまで、頭を使わなければならない状況をつくりだしていた。」
「Oshoがこう言うのを聞いたことかある、
『ひとりひとりは、それぞれとても異なっている……
一般的な指標など不可能だ。
マスターはただ、あらゆる種類のヒントを与え続けていくだけだ。
私の言葉を覚えておきなさい、
それはヒントだ。
指標ではない。
あなたは自分に合ったものを選び、
それがあなたに作用するかどうか、
実際に試さなくてはならない。
もしそれがうまくいくようなら、
その中へより深く入っていきなさい。
うまくいかなくても、罪悪憾を持たないこと。
罪を犯したわけではないのだからーー
単に、ある実験に失敗したにすぎない」
マスターとともにあっては、
生は科学的な実験となる。
もはや、天国か地獄か、
罰か褒賞かといった問題ではなく、
探求の問題となる。
ひとりひとりが自分自身のやり方で探求しなければならない……
精神的な探求においては、
あなたは自分の足で歩くことで道をつくりだすのだ。
できあいの道などありえないーー」