寂しさへの瞑想シリーズ その15
Oshoの言葉
前回のシリーズ14のOshoの言葉の続きは、
以前にご紹介した
寂しさへの瞑想シリーズ その2
へと続きます。
すでに忘れていると思いますので、
その言葉をここに再掲載します。
Oshoの言葉:
マスター(師)は
バラの花のようなものだ。
あなたが見ることができるなら、
見える。
見ることができなければ、
忘れてしまいなさい。
あなたは決してその意味を
知ることはできないだろう、
なぜなら、その意味は
あなたの目の前にあるのだから。
そこから寓話を作り出さないように。
寓話は、あなたが解釈を始めた
ということであり、
何であれあなたが解釈したものは、
あなたの解釈となる。
聞いた話だが…
ムラ・ナスルディンは、
「ここでは釣りをしてはいけません」
という、大きな看板のある場所で
釣りをしているところを捕らえられた。
彼を捕まえた警備員は彼に言った、
「ナスルディン、看板が見えないのか?
読めないのか?ーー
ここは釣りは禁止だ」。
彼はその看板を指さした。
ムラ・ナスルディンは言った。
「はい、読めますが、納得できません。
ここには釣りをするにはいい場所です。
誰が『ここでは釣りをしてはいけない』
と言ったのですか?
ここはいい釣り場なんです。
今日、私が釣り上げた
この魚を見てください。
この看板を立てた奴は
頭がおかしいんじゃないですか?
これは、あなたの解釈だ。
これは単純な看板だ
「ここでは釣りをしてはいけません」
意味を見いだすためではなく、
ただそこにある。
Osho
マスターの存在というのも、
バラの花が
目の前に存在するのと同じように、
目の前にあるものそのものであり、
見ればわかるものだ。
そこには、なんの解釈も必要なければ、
譬え話や寓話となるものではない、
ということですね。
昔から多くのマスターが存在し、
それらのマスターについてのさまざまな
話が存在しています。
いろんな奇跡的な話が語られていたりします。
しかし、Oshoに関しては、
この話をしていた時には、
まさにそこに存在していたのであり
それをそのまま見ればわかるものだ、
ということを語っているわけです。
Oshoのようなマスターがこの世に存在して、実際に人々にワークしていた時代。
それはちょうど、2500年前に、仏陀がインドに存在した、そんな時代の再来でした。
日本では、そのような禅マスターが存在し、人々にワークしていた時代がありました。
そんな時代をこの世に蘇らせてくれたことが、このOshoの話を聞くことでもよくわかります。
今日はこれぐらいにします。
えたに