神はいない だが私ははるかに意義深いものを見出した
There Is No God, but I Have Found Far More Significant
Oshoが出てくるときの表情は、笑みに満ちています。
Oshoが椅子に座り、質問を聞いたとき、Oshoの目は上に移動し、目をつぶります。 神性なるものにつながっているときの表情です。
そして、質問に答える前によくする仕草として、自分の手をじっと見つめます。 でも、その目は動いていません。 人が何かを考えるとき、目が動きます。なぜなら、脳と目の動きはつながっているからです。
その目の動きから、脳のどの部分にアクセスしているかがわかるので、NLPではその原理を使って、その人が過去を思い出しているのか、未来のことを想像しているのか、感じる感覚にアクセスしているのか、視覚につながっているのか、嘘をついているのかということも、目の動きから読み解くことができます。
でも、Oshoの目はいつも静止したままです。
Oshoは話しているときにも、マインドは動いていないのです。
そんなOshoの仕草を見ることができるのも動画でOshoの講話を見るときの楽しみです。
質問 「もし神がいないなら、あなたは無神論者なのですか?」
Osho
「神はいない だからといって
私が無神論者だということではない
もちろん 私は有神論者ではない
私は神はいないと言っている
だからといって
その正反対の無神論者に
飛び移ることはない
無神論者も神はいないと言う
だが 私が神はいないというとき
そしてチャルバカやカールマルクス、
レーニン、エピキュロスのような
無神論者の人たちが
神がいないというとき
彼らが述べていることと
私が述べていることとの間には
述べていることは似ているが
途方もない隔たりがある
私は同時に 神性がある
と言っている
チャルバカはこの点に
同意しないだろう
エピキュロスやマルクス
他の無神論者たちも
この点に同意しないだろう
彼らにとって
神を否定することは
意識を否定することだ
彼らにとって
神を否定することは
世界はただの物質に過ぎず
それ以上のものではないということだ
そして何であれ
あなたが意識としてとらえるものは
なんらかの物質が組み合わされたものの
単なる副産物にすぎないということだ
これらの物質を分解してしまえば
副産物は消え失せる
それはまるで牛車のようなものだ
車輪を取り去り 他の部品を取り去り
そのたびに「これは牛車なのか?」
と尋ねる 車輪を取り外す
もちろん答えは
「牛車ではありません」となるだろう
どの部分も 全体ではない
部品を ひとつひとつ取り外し
全部を取り外しても
どれひとつとして
牛車ではなかった
そして最後に尋ねられる
「では、牛車はどこですか?
牛車は取り外しませんでした
あなたは一度も 取り外したときに
牛車を取り外したとは
言いませんでしたよ」
「牛車」はただの組み合わせだ
それ自体では存在しなかった
それは副産物だ
それが マルクスが
意識は付帯現象だ
と言ったことの意味だ
体を取り除き 脳を取り除き
人間のあらゆる構成部分を
取り除いても
あなたは意識のようなものを
見つけることはないだろう
そして何もかも取り除いたら
意識がそこに残るわけではない
それはただの組み合わせにしか
過ぎなかった
あなたはその組み合わせを
バラバラにした
だから私が
神はいないというとき
私はマルクスやエピキュロスに
同意しているわけではない
もちろん私は
イエスやモーゼ、モハメッド
にも同意しない
なぜなら 彼らが神というとき
彼らは「神」を人物として扱う
神を人物だと思うのは
それはあなたの
イマジネーションにすぎない
中国人の神は
中国人の顔をしている
黒人の神は 黒人の顔だ
そしてユダヤ人の神は間違いなく
ユダヤ人特有の鼻を持っているに違いない
そうでしかありえない
そして馬が神のことを考えれば
その神は馬だろう
だからこれはただの投影に過ぎない
神に人格を与えるのは
あなたの投影だ」
神はいない。だが神性はある。
そこが、Oshoが、物質の存在しか信じない無神論者との違いです。
最近は脳科学が発達して、様々なことがわかってきています。それは脳の動きや働きを精密に見ることができる新しい画像技術ーー陽電子放射断層撮影(PET)スキャンや機能的磁気共鳴画像法(fMRI)などが発達してきたからです。
しかし、それでも意識のありかは解明されていません。意識は脳から生まれるのか、脳とは独立して意識はあるのかということは今も論争になっています。
死んだ後も、意識(魂)は残るのでしょうか? 神はいない。神性はある。では、神性とはなんなのか?
Oshoの講話をお楽しみください。
今日はここまでにします。
えたに