砂の器

 松本清張原作の「砂の器」という映画、見たことありますか?

 少し古い映画なので、見た方は少ないかもしれませんね。

 先日友人がビデオを貸してくれて、久しぶりに見ました。

          

冒頭のシーンでは風が吹きすさぶ中、少年が海辺で水に湿らせた砂の器を作って並べているシーンがあります。

その器が風で乾いて砂が少しずつ飛ばされていき、風化して器の形がなくなっていく様子が画面いっぱいに映し出されます。

ラストシーンでは、その少年は世界的に有名な作曲家になり、オーケストラの前でピアノを演奏するのですが、実はその何日か前に、自分の人に知られたくない生い立ちを隠すために、自分の過去を知っている恩人を殺してしまうのです。

そして映画のシーンでは、満員の観客の前でオーケストラを指揮しながらピアノを演奏している場面を背景に、彼が殺人に至る生い立ちと、刑事が彼を殺人者として特定して、逮捕状を持って演奏会場に行く場面が同時進行していきます。

彼はその演奏会でこれから成功していこうとする、ちょうどその矢先に殺人がバレて逮捕されることになるわけなのです。

彼が殺人を犯してまで人生で追い求めたものとはなんだったのか?

まさに砂上の楼閣の人生を生きようとしたわけで、その感動的な音楽と彼が殺人を犯さなければならなかった生い立ちがオーバーラップして、多くの人が涙するラストシーンで幕を閉じる、とても感動的な映画です。

その物語は、サスペンス映画(小説)として描かれていますが、でもそれが人の胸を打つのは、ある意味、人生の真実を描き出しているところがあるからです。

私たちが追い求めている人生とはなんなのでしょうか?

自分は本当に追い求めるに足る人生を生きているのだろうか?

「わたしが言おうとしているのは、
しがみつくべきもっと高い次元の
ものがあるということだ。

体験すべき、もっと大きな歓びがある。
生には、理解すべき
もっと偉大な真理がある。

あなたがいま
しがみついているものには、
破壊に導く可能性があるだけだ。

私たちが生涯を費やして
行なっていることは、
最終的にわたしたちを破壊し、
わたしたちの一生を破壊する。
生命が失われ、一生が終わるとき、
死の瞬間に人が苦しむ唯一の
痛みと悲しみがある
ーーーそれは、非常に貴重な
生の喪失に対する後悔だ。」

「砂の器」が描き出している少年の人生は、まさに彼が生涯を費やして行なってきたことが最終的に彼を破壊し、彼の一生を破壊してしまったわけです。

そのことに気づいたとき、この自分の人生には追求すべき何かもっと高い次元のものがあるのかもしれない、ということに思い至ります。

そうした時に、初めて真理への渇望が生まれてくるのです

実のところわたしは、
あなたのしがみついているものが
間違いだとも言っていない。

わたしが言おうとしているのは、
しがみつくべきもっと高い次元の
ものがあるということだ。

体験すべき、もっと大きな歓びがある。
生には、理解すべき
もっと偉大な真理がある。

あなたがいま
しがみついているものには、
破壊に導く可能性があるだけだ。

私たちが生涯を費やして
行なっていることは、
最終的にわたしたちを破壊し、
わたしたちの一生を破壊する。
生命が失われ、一生が終わるとき、
死の瞬間に人が苦しむ
唯一の
痛みと悲しみがある
ーーーそれは、非常に貴重な
生の喪失に対する後悔だ。

だから今日初めに言いたいのは、
私が昨晩話した渇きが生まれるのは、
あなたが現在引きずっている
生が誤りだと覚(さと)り
気づくときだけだということだ。

渇きが生まれるのは、
現在の自分の生き方が完全に間違いで、
無意味だと気づくときだけだ。

これは、かなり理解しにくい
ことだろうか? 
あなたはこれまで集めてきたものに
価値があると確信しているのかね? 
これまで蓄積してきたものに、
不滅性が認められると
確信しているのかね? 

あらゆる方向へ全力を尽くして
築いているものが、
砂の城ではないと本当にわかるかね? 
それとも、しっかりした
土台でもあるのかね? 
この点を省みることだ。
じっくり考えてみなさい
。」

今日は自分の人生を省みて、じっくり考えてみましょう。

それでは今日は、自分の人生を省みる日ということで。

Have a nice day!

えたに