寂しさへの瞑想シリーズ その16

寂しさへの瞑想シリーズ その16

Oshoの言葉

ちょっとややこしいですが、

寂しさについてのOshoの講話の全体を紹介するため

最初の質問のところから、順を追って掲載する関係で、

すでに紹介したシリーズ2からシリーズ5までが繰り返しになりますが、ここに再掲しています。

もともとの質問は、ある禅師の

「私は私とひとりここに座っている」
寓話の意味は何でしょうか?

という質問に対して、

Oshoは、それは寓話ではない、
その言葉そのものが真実だ、
ということを語っているわけです。

禅では、「只管打坐」とひとこと言って

あとは禅師のもとでただひたすらに座って坐禅するするわけですが、

現代人ないし西洋人にそんなことを言っても通じないので、
Oshoは微に入り細に入り、その意味を解いて聞かせてくれているわけです。

ということで、昨日からの続きを一挙掲載しておきます。

復習です。

Oshoの言葉。

禅のマスターが何かを言うとき、
あるいは
どんなマスターも何かを言うとき、

その意味は絶対的に明確であり、
明白だ。

それはただあなたの目の前にある。
それを避けようとしないように。
もしあなたが意味を探し始めると、
右往左往して、
目の前にあるものを見逃してしまう。

それは、シンプルな言葉だ。
「私は私とともにひとり座っている」

その感覚を持つために、試してごらん。
時々、一人で座るといい。
それが瞑想ということのすべてだ。
何もしないで、ただ、ひとりですわる。
ただ、やってごらん。
もし、あなたが
孤独(さみしさ)を感じ始めたら、

そのときは、あなたの存在の中に
何か欠けているものがある
ということだ。

あなたはまだ、自分が何者であるかを
理解できていないのだ。

           Osho

そして、この寂しさの中に
深く入り込んでいくと、

ある層で突然、
寂しさそのものが変容して、
ひとりであることになる。

それは変容するーー
同じ現象の否定的な側面だ。

寂しさは、
ひとりであることの否定的な側面だ。

もしあなたがその中へと
深く入っていけば、

突然、あなたは
そのポジティブな側面を
感じ始める瞬間がやってくる。

両方の側面がいつも一緒にあるのだ。
              Osho

だから、孤独でいなさい、
孤独に苦しみなさい。

それは難しい。瞑想は難しい。

私のところに来て、
「はい、座る準備は
できているのですが、

マントラを唱えられるように
マントラを教えてください」

と頼む人がいる。
彼らは何を求めているのか?

彼らは、一人になりたくない、
孤独と向き合いたくない、
と言っているのだ。

マントラを唱えれば、
マントラが仲間になるだろう。

彼らは「ラム、ラム、ラム」
と唱えるだろう。

そうすると「ラム」という音を
繰り返し唱えれば、

それが彼らの仲間になる。
        Osho

このような人は、
全体のポイントを見逃している。

超越瞑想(TM)は、
まったく瞑想ではない。

なぜなら瞑想とは、
単にひとりになって、
何もしないことを意味する。

マントラを唱えることさえしない、
なぜならこれは
マインドのトリックだからだ。

それがマインドが
いつもやってきていることだ。

あなたがひとりで座っているとき、
どれだけのファンタジーが
自分の前に現れるか
見たことがあるかね?ーー

果てしない空想、白昼夢。
あなたがひとりでいるときには、
いつも白昼夢を見はじめる。

何もすることがなく、
退屈に感じるときにはいつも、

ただちにあなたは
白昼夢に逃避してしまう。

       Osho

以上、次のテキストにつなげるために、
シリーズ5までを再掲しました。

要するに、

寂しさ(loneliness)というのはひとりあること(aloneness)とコインの裏表であり、

寂しいからといって他人を求めるのではなく、ひとりであることの中に深く入っていきなさい。

そうすれば、ひとりあることの中に、全宇宙がそのなかにあることがわかるだろう。

しかしそのためには、禅師の言う通り、ただひとり坐ること(瞑想)をしなさい。

そうすれば、寂しいというネガティブな状態からひとりあること(aloneness)のポジティブな状態へ

変容するだろう、と言っているわけです。

そのためには、本当に瞑想すること(ひとり坐る)が大切で

マインド(白昼夢やマントラ)に逃避しないように、ということですね。

続きはまたあした。

えたに