「存在とハート」シリーズ(4)

Oshoの言葉

「存在とハート」シリーズ(4)

王座はハートのものだ。
そして、これこそが、
弟子が帰依者になることを通して
なされる革命だ。

それはハートが主人になり、
マインドが
従者になるときになされる。

このことは
覚えておかなければならない。

使用人としてはマインドは完璧だ。
主人(マスター)としては
最悪の主人(マスター)だ。

従者(サーバント)としては、
マインドが最高だ。

そしてハートはーー
それが玉座にあるにせよ、
路上にあるにせよーー

あなたの唯一の希望だ。

あなたが
自分の存在(being)に橋がかけられ、

存在(existence)に
橋渡しされるための

唯一の可能性だ。

あなたの中に歌が生まれ、
あなたの中に星が降り、
あなたの人生が喜びとなり、
踊りとなるための
唯一の可能性だ。
     Osho

ここでOshoは、ハートが主人であり、マインドが従者であるべきこと、

そして、ハートが存在へと橋渡しされるための唯一の可能性であり、唯一の希望であることについて語っています。

ここで、

王座はハートのものだ。
そして、これこそが、
弟子が帰依者になることを通して
なされる革命だ。

それはハートが主人になり、
マインドが従者になるときになされる。

という言葉があります。

これは、弟子でない人にはちょっと分かりにくい言葉かもしれません。

弟子とマスターとの関係については次のようなOshoの言葉があります。

ここで「サニヤス」とは弟子になることです。

弟子のことは「サニヤシン」(帰依者)という言い方がされます。

帰依者というと、弟子がマスターに従属するように

思われるかもしれませんが、そうではありません。

その逆です。

マスターというのは、すべての従属から解放してくれる人、

存在へと橋渡ししてくれる人でもあるのです。

次のOshoの言葉が、そのことをよく表していると思うので、参考までにご紹介します。

<理解はハートのものだ>

理解とはマインドのものではない
理解とはハートのものだ。
あなたは
恋に落ちなければならないだろう。

それがサニヤスのすべてだ。
まったくなんの理由もなく、
マスターと恋に落ちるということ

ただ、消えてしまった人、
もはやいない人、
大いなる無になってしまった人と
ただ純粋な喜びのために、
恋に落ちるということ。
静寂となってしまった人と。
       Osho

つまりここでいうマスターとは「存在」そのものになってしまった人のことです。

その存在に恋することが、サニヤスの意味なのです。

でも、ただ「存在」というわけがわからないものに手放していくことは難しいので、

存在となってしまったマスターがその橋渡しをしてくれるというわけなのです。

そういう意味で、

ハートは、存在に恋をし、存在に自分を明け渡ししていくために

その橋渡しとなってくれるのです。

それは、マインドにはできないことです。

マインドにはそのような「理解」は無理です。

そのような「理解」はハートにのみ可能となる、ということをOshoは語っているのです。

今日はここまでとします。

えたに