Oshoの言葉
あなたは家に帰り着いた
もしあなたの気づきに
愛が欠けているなら
それはまだ不純だ。
その気づきはまだ
100%の純粋さとはいえない。
それはまだ本当の気づきではない。
その気づきは無意識
(気づきのなさ)と
混ざり合っているに違いない。
それは純粋な光ではない。
あなたの内側にはいまだ、
あなたを支配し、
あなたに影響を与え、
機能し、働いている
暗闇となっている
ところがあるに違いない。
もし、あなたの愛に
気づきがないなら、
それはまだ愛ではない。
それは何か愛よりも低いものだ
祈りよりも情欲に
近いものに違いない。
だから、
それをを基準としなさい
もしあなたが
気づきの道を歩むのであれば、
愛をその基準としなさい。
あなたの気づきが
突然愛へと花開く時、
完全によくわかるだろう。
気づきが起きたことを、
サマーディに到達したことを。
もしあなたが愛の道を歩むなら、
気づきを基準としなさい。
試金石として、
機能するようにしなさい。
突然、どこからともなく
あなたの愛のまさに中心に
気づきの炎が起こり始めた時
完全によくわかるだろう、
喜び、祝いなさい!
あなたは家に帰り着いたのだ。
Osho
気づきの道と愛の道。
瞑想の道と愛の道
と言い換えることもできます。
Oshoから瞑想を学び始めた頃、
瞑想の道と愛の道
どちらの道を歩むべきか、
悩んだものですが、
こういう言葉を知っていれば、
悩まなくてももよかったのに、
と思います。
そういうことに悩んだことがある人なら、
なるほどぉ〜、と思って、
目から鱗の言葉です。
その人の好み、ないしタイプによって、
どちらの道を歩んでもいいのですが、
たぶん、傾向として、
男性は瞑想(気づき)の道、
女性は愛の道を歩むことが多いのではないでしょうか?
いずれにしろ、
もしあなたが気づきの道を
歩むのであれば、
愛をその基準としなさい。
もしあなたが愛の道を歩むなら、
気づきを基準としなさい。
いずれに道を歩むにも、
気づきと愛は、両方が必要で、
それらは両翼のようなもので、
その二つが必要ということなのです。
そして、
サマーディに到達したこと
家に帰り着いたときには、
自分でわかる、
ということをOshoは語っています。
> あなたは家に帰り着いたのだ。
という言葉は、意味深です。
禅の悟りの道を示した十牛図で言えば
十番目の図にあたります。
長い探求の道を歩いたあげく、
そのたどり着いた先は、
我が家だった(もといた俗世間)、
というのですから。
「わが家」というのは
あるがままの自分、
本当の自分を知った
ということを意味します。
すごろくで言えば、
「上り」ですが、
上がってみれば、
その出発点、
元に戻ってしまったようなものです。
なぁ〜んだ、
過去にも未来にもいく必要はなく、
「今ここ」にいればよかったんだ。
っていうことですよね。
白隠の座禅和讃を読むと、
このことがよくわかります。
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり
https://koufukuji.yokohama/scripture/12
それが、「わが家に帰り着いた」
という意味です。
でも、その時には、
同じ場所であっても、
物事を見る視点がちがいます。
もといた次元とは別の次元にいるとも言えます。
なんの先入観も偏見もない、
曇りのない目、
「あるがままに見る」目があります。
今まで見えなかった、
高い視点から物事を見ることができています。
今まで気づかなかった
いろんなことに気づくことができるようになっています。
もしあなたの気づきに
愛が欠けているなら
それはまだ不純だ。
その気づきはまだ
100%の純粋さとはいえない。
それはまだ本当の気づきではない。
その気づきは無意識
(気づきのなさ)と
混ざり合っているに違いない。
気づきが深まれば深まるほど、
別の次元の物事にも気づくようになります。
それは純粋な光ではない。
あなたの内側にはいまだ、
あなたを支配し、
あなたに影響を与え、
機能し、働いている
暗闇となっているところが
あるに違いない。
その気づきが十分でない時には、
内側に暗闇(無意識)があり、
その無意識によってコントロールされてしまいます。
その気づきを深めていくには、
やはり、それなりの歩みはあるのですね。
上がりの先はわが家だ、
だから何もしないでそのままでいいんだ、
とマインドは思いがちですが、
そのマインドにも気づいている必要があります。
今日はここまでにします。
えたに