Oshoはここで「観ること」について詳しく、具体的に、その方法を説いています。
「観ること」は瞑想の本質ですが、アメリカなどでは「マインドフルネス」として紹介されることが多いようです。
グーグルやインテルなどのIT企業も「マインドフルネス瞑想」を研修に取り入れています。
しかしOshoがここでいう「観ること」といわゆる「マインドフルネス」とは少し違っているように思われます。
マインドフルネスの定義もいろいろあるようですが、ある説では、
1:「今という瞬間に、全力を傾ける」ことがマインドフルネス。
2 :マインドフルネスの効果は、集中力を高め、ストレスを減らし、仕事のパフォーマンスを上げるなど、様々な効果アリ。
3 :まずは座りながら呼吸に集中したり、歩いている時に歩いている自分を精一杯楽しんだり、その時々の行動に集中することが大切。
というふうに定義されています。
日本でも最近は「マインドフルネス」という言葉を使うことが流行ってきているようですが、それは「気づき」に近い言葉で、パーリ語の「サティ」という言葉の英訳のようです。
しかし「マインドフルネス」という言葉は言葉を見ると、マインドフルというのは注意深くいるという意味ですが、「マインド」がフルの状態というふうにも解釈でき、気づきを表す言葉としてはあまりふさわしくないのではないかと思っています。
というのは、私自身、最初「観ること」をマインドで観察することと混同していた時期があります。
私は禅の経験があったので、マインドからではなく気づいている状態ということの体験はあったのですが「観ることと」といわれるとどうしても頭で観察することになってしまいがちで、マインドを超えて観るということとの区別がつきにくい時期がありました。
それもそのはずで、学校では頭を使うことしか教えられていなかったので、どうしても観ることというと、理科の実験での観察のように、頭で観察してしまうのです。
そのことの区別が簡単にわかるようになったのは「ハート瞑想」を意識するようになってからです。
ハート瞑想をベースにして「観ること」をすると、マインドとは異なった次元の「ハートのスペース」から観ることになるので、マインドから観ることとの違いがはっきりするのです。
マインドで見るときには、集中して、部分にフォーカスして(焦点を合わせて)、能動的に観察するので、集中にともなう緊張がそこにあります。
しかしハートのスペースで観るときには、焦点を合わせず、全体に、受動的に気づいている状態なので、リラックスしています。
Oshoは、「観ること」は、とてもくつろいだ状態で行われるべきで、それは集中ではない、と言っていることを理解するには、マインドで見るのではなく、ハートで観るということをすると容易になります。
般若心経に「観世音菩薩」という言葉がありますが、これは観音さまが「観る」というのは心の目で観ることなのですが、これはまさにハートで観ることなのだと思われます。
そしてOshoは、ある女性に「あなたはまだ『見ること』への準備ができていない」と言っていますが、観ることには準備が必要なのです。
それは内面に分裂や抑圧があると観ることが難しくなるということです。
ですからOshoは「ダイナミック瞑想」や「クンダリーニ瞑想」などのカタルシスを含んだ動的な瞑想を現代人向けに紹介しています。
しかし「ハート瞑想」でもそれらの内面的な分裂や抑圧が自然と解消されていきます。
そういう意味でも「観ること」のためには、ハート瞑想がその準備として役に立ちます。
ハート瞑想については「悟りのシンクロニシティ」の本で詳しく解説されていますし、ハート瞑想のためのガイド瞑想も付録でついていますので、実際に体験できるのでお勧めです。
シュンニョは語ります。
「『観ること』は、とてもくつろいだ状態で行われるべきで、
それは集中ではない―――
呼吸をしたり、食事をしたり、散歩したりといった、
自分がしているすべてのことに気づきをもつことだと
Oshoは言います。
まず単純なことから始めなさいと、彼は私たちに言いました―――
肉体を見なさい、自分は肉体とは別のものだと感じながら・・・・・・
マインドのスクリーンをよぎる想念を見なさい、
あたかも映画を見るかのように・・・・・・
感情がこみあげてきたらそれを見なさい、
そしてそれが自分ではないことを知りなさい。
そして最後の一歩においては、
私たちは完ぺきな静寂のなかにあり、
見るべきものはなにもなくなる、
そのときウィットネスはウィットネスそのものに気づく
といいます。
Oshoはある女性に対しては、
「あなたはまだ『見ること」への準備ができていない」と言いました。
まだ彼女は内面に分裂を感じるだろうというのです。
まず否定的な感情を表現しなさいと、
Oshoは彼女に言いました。
もっともそれはひとりでいるべきときにすべきことで、
人に向けて表現しなさいという意味ではありません。
内面に抑圧があっては『観ること』はできないのだからと、Oshoは彼女に言いました。
私が思うには、もしもくつろいだ状態で『観ること』ができ、穏やかさと喜びが感じられるなら、それは自分にもう準備ができているという適切な目安になるでしょう。
これは瞑想法全般に言えることですが、それが心地よく感じられるなら、それは自分に合っているのです」
「Oshoと過ごしたダイヤモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)