Oshoの言葉
あなたの背骨
もし、あなたがこの瞬間を
生きることができれば
もしあなたが今ここに
いることができれば
そうすれば、すべては
なるべきようになる
禅におけるすべての努力は
いかにあなたに
気づきをもたらすかにある
Osho
背骨(Spine)というのは、
私たちの体の中心を貫いているものです。
よく、「この瞬間にいる」とか、
「今ここにいる」とか、言われますが、
それはどういうことかというと、
いかに、その瞬間に気づいていられるか
ということにかかっています。
しかし、このように言うには、
その背後には、「存在は決して誤りを犯さない」
という信頼があります。
この「存在は決して誤りを犯さない」ということを
信頼することは並み大抵のことではありません。
しかし、Oshoは、そのように生きていたのです。
> もし、あなたがこの瞬間を
>生きることができれば
> もしあなたが今ここに
>いることができれば
> そうすれば、すべては
>なるべきようになる
と言う言葉を読んだ時、
何か、違和感を感じませんでしたか?
「え? 『すべてはなるべきようになる』って、
あたりまえのことじゃん?
物事は良くならないの?」
って思わなかったですか?
私たちは、今ここに気づいていないから、
いろんな間違いを犯したり、
後悔するようなことをしたりするので、
今ここに気づいていられれば、
そんな間違いも犯さなくなり、
苦しみも悩みもなくなり、
物事は全てうまくいくはずだって、
マインドはそのように考えます。
しかし、そういうことではないのです。
ここでOshoが語っていることは、
さらにもっと深いレベルでのことなのです。
> そうすれば、すべては
>なるべきようになる
この言葉は、マインドにとっては、
本当にガッカリする言葉なのですが、
存在のレベルから見た場合には、
物事の見え方は、まったく異なったものになります。
Oshoがアメリカを出て、ウルグアイに滞在していた時、
そこでも警官に監視され、行動の自由が制限され、
Oshoは受難と苦難のなかにありました。
そんな中で、Osho自身がどのように過ごしていたかということを、
身近にいたシュンニョが書いてくれています。
Oshoは、しばしば部屋から出られない生活を余儀なくされたのですが、
それでもいつも次のように言っていたというのです。
『いずれにせよ、
私は目をつぶって静かに座っているのだから、
どこにいようがなんの違いもない』
このOshoの言葉に、
シュンニョは次のようにコメントしています。
「Oshoの言うには、
みずからに満足していて中心のすわった人は、
どこに行く必要もないのです。」
今回のOshoの言葉のタイトル、
「あなたの背骨」ということの意味は、
「みずからに満足していて中心のすわった人」
ということです。
そのようにあるためには、
今ここにいて、
この瞬間に生きることであり、
>いかにあなたに気づきを
>もたらすかにある
ということになります。
そうするとどうなるか、というと、
「……どこにいようと
私はつねに私自身だ。
私は至福に満ちているから、
どんな場所にいようと、
その場所は私にとって
至福に満ちた場所になる」――
Osho
そして、さらにその背後には、
存在に対する信頼があります。
「信頼とはこういう意味だ―――
なにが起ころうと、
喜びとともにそこにあるということ。
ためらいながら、
いやいやながらで
あってはならない―――
それでは要点をとり逃がしてしまう。
踊りながら、歌と笑いと
愛とともにあることができるなら、
たとえなにが起こっても、
それはよいことしかもたらさない。
存在(エグジスタンス)は
けっして誤りを犯さない。
もしも、それが私たちの欲望を
満たしてくれないとしたら、
それは私たちの欲望の方が
誤っていたということだ」
Osho
> 踊りながら、歌と笑いと
>愛とともにあることができるなら、
> たとえなにが起こっても、
>それはよいことしかもたらさない。
> 存在(エグジスタンス)は
>けっして誤りを犯さない。
これが、
>そうすれば、すべては
>なるべきようになる
ということの意味になります。
そして、いつも自分の思うようにものごとを
コントロールしたいと思っているマインドに対しては、
>もしも、それが私たちの欲望を
>満たしてくれないとしたら、
>それは私たちの欲望の方が
>誤っていたということだ
という一撃が加えられます。
こう言われると、
マインドとしては、
「はい、そうですか」
というしかありませんよね。
それでも、存在を信頼しますか?
今日はここまでにします。
えたに